書籍詳細

平凡師匠は弟子の天才魔術師から逃げ出した

てんつぶ/著
伊東七つ生/イラスト

定価 : 1,320円(税込)
発売日 : 2024/05/10

内容紹介

五年だぜ師匠。もう逃がさねーから

辺境の森で一人暮らす魔術師のヨイの元に、ある日突然謎の金髪の美少年ユーキが現れる。どこか懐かしい言語を話すユーキを弟子とし、共に生活することに。五年後、見目麗しく育ったユーキは、自分よりも遥かに優れた魔術の才能を開花させていた。その上、ユーキからの艶やかなスキンシップが多く、触れられるたびにドキドキしてしまい……。たぐいまれなる魔術の才能を持つ彼の将来を考え、平凡な自分は足枷にならないよう身を引く決意をするヨイ。彼の元から離れるも……「逃げるなよ、師匠。もう逃がさねーから」五年越しの熱い眼差しに射抜かれ、押し倒されて――。天才魔術師×平凡師匠の、執着溺愛!!

人物紹介

ヨイ

おおらかで平凡な魔術師。ユーキを拾い、ともに生活する。

ユーキ

ある日突然ヨイが住む森に現れた金髪の美少年。

立ち読み


第一章 拾った子供


 自分の体温が移った布団の中は暖かくて気持ちが良すぎる。もぞもぞと布団の中で寝返りを打ちながら、もうここから出てこられない季節になったことを実感してしまう。
 咎(とが)める人間がいるでもないんだから昼まで寝ておこうかな……と甘い誘惑に駆られるけど、悲しいかな、死んだ婆ちゃんから規則正しく生活をしなさいと散々教え込まれている。ぐだぐだ言ってないでさっさと起きなさいと、もう聞こえるはずのない声が響いてくるようで僕は思わず笑ってしまった。
 それに僕以上に規則正しく生きているらしいお腹がグウと大きな音を立ててしまえば、もはや起きる以外の選択肢はなかった。
「う~~寒い寒い」
 手早く着替えて身支度を整える。少し曇った鏡の前で寝癖を直し、小さく軋(きし)む扉を開けた。
 小さな食卓の上に先日買っておいた新聞を置き、先に朝ご飯の支度をする。部屋の隙間からひやりと冷たい空気が流れて、ブルッと身体が震えた。
 この家がある森の中は、恐らく町よりも冷えるのだろう。森の中での暮らしは新聞一つ買うのにも時間がかかるし、これからの時期は寒さもこたえる。とはいえ一人暮らしをするには寂しい場所でも、ずっと過ごしていれば愛着もあって、いかに寒かろうとこの家も森も僕にとっては大切な場所で今の所離れる予定はない。
「へえ……皇位継承権争いが激化する中でホラン皇国の第一皇子が婚約……皇位争奪戦は兄弟で血を流すか? うーん、おめでたい話なのか血生臭い話なのか、どっちなのこれ」
 うちの国とは同盟関係にあるホラン皇国は、なかなか黒い噂が絶えない。かつて王族同士の友情とやらで支援していたという貧しいその国は、今は随分発展していると聞く。表向きは同盟国でも実際は属国に近いホラン皇国が、今後はどう動くのか。新聞にもそんな内容が書かれている。
 とはいえ一面に書かれたその内容は、全体的にはお祝いムードが漂っていた。結婚、いいな。成人して結婚できる年齢であるとはいえ、僕にはまだまだ縁遠い話だけど。
「結婚かぁ」
 僕は大して収入がある訳でもないし、見た目も能力も平凡な魔術師だ。
 その上死んだ婆ちゃんとの思い出から抜け出せなくて、今の所この家から出る予定もない。僕にとって唯一の家族だった婆ちゃんがいなくなってから、もう二年。だけどまだ二年だ。物心ついた頃から過ごしてきたこの場所を離れるには、まだまだ捨てきれない思い出が多すぎる。
 おまけにここは村まで徒歩で往復三時間かかってしまって、得意の浮遊の魔術で楽をしてもこの移動時間は殆(ほとん)ど変わらない。つまり万が一僕と結婚を考えてくれるような人でも、わざわざ移住したいと思ってもらえそうな場所でもないということだ。
 僕の二十歳という年齢なら結婚適齢期ではあるけれど、だからといって浮いた話がある訳でもない。
「積極的に結婚したい訳でもないしね、うん」
 強がりではない。
 決して、強がりではないのだ。僕は自分に言い聞かせるように呟(つぶや)いた。
 一人で暮らすこの家は、今日も僕の独り言と生活音しか聞こえない。
 まとめて買い込んだ新聞のいくつかに目を通しながら、僕は行儀悪く朝食の野菜スープを咀(そ)嚼(しゃく)した。
 村に買い出しに出かけた時に買った王都の新聞は、こんな田舎に届く頃には三日ほど情報が遅れている。その上、一週間掛けてゆっくりと読むそれに書かれている日付は、かなり前を指していた。
 だけど社会情勢は把握しておいた方がいい。「生きるために無駄なことは一つもないのだから」とは、死んだ婆ちゃんの口癖だ。
「ん……? 魔術師協会は次代の救世主召喚を発表……前代同様、強力な魔術を持つ黒髪黒目の救世主は現るか……? まだやってたんだこれ」
 ゴシップ誌に近い新聞の二面には、そう書かれた記事が大きく取り上げられていた。
 別に今この国は危機に瀕(ひん)している訳ではない。世界に魔王がいる訳でもなければ、危険な大型魔物がその辺をウロウロしている訳でもない。
 数百年前は魔王と呼ばれる存在もいたそうだけど、もはやそれもお伽(とぎ)噺(ばなし)だ。
 既に人間と大型魔物は、女神の力で住む場所を明確に分けて久しいし、田舎にはまだ小さな魔獣が存在しているものの、目が赤くその肉が硬いことを除けば狼と大して変わらない。
 つまり、少なくともそういった外敵からの脅威はない。それに周辺国に対して随分広い土地を有するこの国は豊かで、至って平和なはずなのだ。
 そんな中で異世界から救世主を召喚する必要があるのだろうか。前時代すぎて非人道的だと、僕は思う。
 この国を守護する女神の加護を、より強(きょう)靭(じん)なものにできる存在。それが黒髪黒目の救世主ということらしい。召喚なんて聞こえはいいけど、全く別の世界から喚(よ)び出(だ)すのなら誘拐と変わらないんじゃないだろうか。
 だけど新聞によれば王都に張られている結界の殆どが、歴代の救世主が維持してきたものなんだとか。それを王都の優秀な魔術師が管理する仕組みのようで、前代の救世主が亡くなってからそれが弱まったとかなんとか書いてある。
 だから魔術師協会に影響力のある王族や貴族は、この王国を他国に侵攻されまいと召喚儀式を推奨しているらしいけど……そんな必要ある? 僕が知ってる限りでは、この大陸の力関係は随分長いこと安定しているし、戦争なんてこの五十年は聞いたことがない。前の戦争も、この国が小国を侵略しただけの一方的なものだって聞くし。
 我が国の基盤は揺らぐことがない、つまり大国なのだ。
 あーやだやだ。侵略なんてしなくていいから平和第一でやってほしい。
 王家や貴族連中はどう思ってるか知らないが、少なくとも僕たち庶民はそう思っている訳だ。
 異世界の救世主よりも目の前の税金。畑の作付けや肉の仕入れ値の方をどうにかしてくれよーというのが庶民の本音な訳で。と言っても森の中でほぼ自給自足の生活をしている僕には、どちらにせよその恩恵にあやかることはなさそうだ。
「ま、召喚も最近はずっと失敗してるらしいし、もう形式美みたいなもんなんだろうけどさ。十年に一回挑戦するのが習わしらしいけど、召喚された方はいい迷惑だよね」
 全然知らない世界に喚び出されるなんて、僕なら勘弁してくれよって思ってしまう。
 黒髪黒目、それが膨大な魔力を持っている救世主の外見的特徴だと書いてあるけれど、魔力量だけなら僕の婆ちゃんだって凄かった。髪は灰色だったけど瞳は黒に近かった気がするし、わざわざ召喚なんてしなくても、国内でなんとか救世主の代わりを探せないものだろうか。
 そうは言っても、平凡な魔力しか持たない僕が言うのもおこがましい話だけどね。
「ふう……寒くなってきたからかな、あったかいスープが幸せすぎる」
 前に仕込んだ自家製ベーコンをゴロンと厚切りにして、鍋に放り込む前に軽く焼いて焦げ目を付けている。脂で香ばしく焼けたベーコンと一緒に、大ぶりに切った自家製野菜を大鍋にぶち込んで味を調(ととの)えれば、それだけでご馳走の完成だ。野菜にまで肉の旨味がギュッとしみ込んでいる。
 もちろん僕一人ではすぐには食べきれないこれは、きっと三日は持つだろう。明日にはきっと今日より味が馴染んでいるだろうし、明後日にはミルクを足しても良いかな。ああそうだ、最後には米とチーズを加えてリゾットにするのも悪くない。きっと何杯でも食べられてしまう。
 未来の食事を想像してつい頬が緩(ゆる)む。
 婆ちゃん秘伝のスープは本当に美味しいのだ。僕がこんなにも食に執着してしまうのもきっと、料理上手な婆ちゃんに育てられたせいだろう。
「あ、そうだ。そろそろあっちの畑の芋も収穫しよう」
 周辺の村で魔術師様と崇(あが)められていた婆ちゃん。そんな彼女に同じく魔術師として育てられたものの、残念ながら僕の実力は恐らく中の下。それだけで生計を立てられない僕は、むしろ今は農家と言っても差し支えなさそうだ。
 折り合いが悪いながらも世話をしてくれる親戚の好意で、こんな森まで魔術師としての仕事を送って貰っているけれど、僕が対応できるレベルの依頼しか来ない。五件こなして送られてくる報酬は五千ゼニーがせいぜいだ。
 五千ゼニーは大体平民が一日で稼ぐ金額だけど、その魔術依頼は週に一回来るか来ないか。
 つまり情けないけれど、魔術師として現状は殆ど稼げていない。
 僕がもっと優秀な魔術師だったら、婆ちゃんの書庫にある魔術本も活用できたのに。残念ながら今となっては宝の持ち腐れなのだ。
「ううん、くよくよしてても仕方ないもんね」
 スープで腹を満たすと、随分身体が温まった。気を取り直していつもの薬瓶を手に取った。
 中に入っているのは、綺麗な赤色をした丸薬だ。婆ちゃんが亡くなる少し前から用意されていたそれは、滋(じ)養(よう)をつける薬なのだと聞いている。
 奥の部屋にずらりと並んだ大瓶の中身は全部この薬で、本当に一体何十年分あるんだろうと思うけど、それだけ僕を愛してくれていたのだからありがたい。一日三回必ず飲めと最期の時まで言われたため、僕はすっかりそれを飲むのが習慣になっていた。
 瓶から一粒取りだし、ほんのり甘い薬をさっさと水で流し込んだ。
 魔術師だろうが農家だろうが、結局生きるためには食べ物やお金が必要なのだ。うじうじしていても仕方がない、今日は今日の仕事が待っている。
 持ち前の切り替えの早さで、僕は今日一日の段取りを考えた。
 まずは、心(こころ)許(もと)なくなった食材の買い出し。ある程度自給自足は出来ているけれど、それでもミルクや海産物、調味料なんかは、どうしても外に頼るしかない。
 石鹸ももうすぐ無くなりそうだったから、それも一緒に買って帰ろう。今から村へ向かえば、昼過ぎには帰ってこられる。それから昼食にして、午後は畑の手入れをする。
 うん、我ながら無駄のない計画だ。僕は自分の両頬を叩き、気合いを入れる。村へ行く、ただそれだけのことにもかかわらず、僕にとっては結構な気力を必要とするからだ。
 浮遊の魔術で楽をしながら、森を抜け林を通り、川向こうにある村へと辿り着いた。村と言っても結構大きくて、商店だっていくつもある。辺(へん)鄙(ぴ)な場所なのにな、と思ってたこともあったけど、ここは周辺国の道路に繋がっているせいだと気がついた。
 他は険しい山道が主になるため、結果的にこの村が中間地点となり繁栄しているのだ。だから流通はもちろん、治安だって悪くない……と思う。
 村の入り口を通って中へと入る。フードを被っては逆に目立つと分かっているけれど、それでも僕は目深にそれを被ってしまう。
 そんな僕に気がついた人の囁(ささや)きが、つい耳に滑り込んでくる。
「また来たのかあいつ。森の中から出てこなきゃいいのに」
「こっちはあの方がいなくなった影響が、まだ残ってるっていうのに……」
 僕はフードをギュッと握った。少しでも聞こえる言葉を少なくしたいと思うけど、どうせこんな薄い布一枚では何も防げない。自然と顔が地面の方を向いていく。
 食材と、石鹸。それとくたびれてきた布巾も。僕は急ぎ足でまっすぐ該当の店へ向かう。
 いくつかの食材を買い回って、その度に無言で冷たい視線を浴びせられた。いや、それだけで済んでいるのならまだ御(おん)の字だろう。
 細く息を吸って、そして吐く。気を抜くと呼吸すら控えてしまいそうだった。
 あとは雑貨屋に行ったら終わりだけど、その店が一番行きたくない。それでも村で唯一の雑貨屋だから、そこに行くしかないと分かっている。重い足を叱(しっ)責(せき)しながらどうにか雑貨屋に到着する。
「はあ……いませんように」
 店の前でそう祈り、息を整えてドアノブをグッと押した。
 ドアチャイムが鳴り、薄暗い店内に足を踏み入れると「おーう」と実に楽しそうな声が聞こえる。どうやら僕の祈りは女神に届かなかったらしい。
「またノコノコ来たのか? 見殺しのヨイ」
 雑貨屋には似つかわしくない、その厚みのある筋肉質な腕をカウンターに載せ、下(げ)卑(び)た笑いを浮かべるのはこの店の息子であるペボだ。僕と年齢は変わらないものの、身長も体重も随分違ってしまった。子供の頃は仲が良くて、婆ちゃんに連れられて来たときには一緒に遊んだものだけど。
 ペボが店番をしているということは、今日はおばさんが留守なのか。僕はひっそりとため息をついた。
「最近はさぁ、村の外れが土砂崩れに遭ったんだぜ? 皆で復旧にあたっても、なかなか終わりゃしねえ。は~、オマエが殺した、魔術師様がお元気だったらなァ」
「……僕は婆ちゃんを殺してないし、見殺しにもしてない。もう何年もこの説明はしてるはずだよ」
 ペボ含め、村人たちが僕を煙たがる理由は、二年前に亡くなった婆ちゃんにある。
 婆ちゃんは自分のことをあまり喋りたがらない人だったけど、それでもこの村の人たちに魔術師様と呼ばれて慕われていた。
 亡くなった二年前。あの時期の婆ちゃんは少しずつ食欲をなくし、眠ることが増えていた。そして本人の希望で投薬することもなく医者に診(み)せることもなく、ただゆっくりと眠るように亡くなったのだ。
 元々白髪が多く灰色だった髪の毛は、その頃にはすっかり真っ白になっていた。僕の目に映る婆ちゃんは、それが自分の寿命だと笑って死を受け入れていたように見えた。
 この近くでは、魔術師といえば婆ちゃんを指した。それだけ村にとっては必要な人材だった訳で、その婆ちゃんの死去を伝えた時の村人たちの悲しみは大きかったようだ。
 だけどそれも、僕と婆ちゃんとの間の出来事――死を受け入れながら何もせずに見守っていたことが知れ渡ると、次第に僕への風当たりがきつくなった。
 彼らが慕っていた魔術師の喪失、そして婆ちゃんがいなくなったことで起こる不便さへの苛(いら)立(だ)ち。それらが全て、僕へと向かってきたように思う。
 あれから二年。
 もう二年なのか、まだ二年なのか。今では、昔を知る大人が道ばたでひそひそ話す程度で済むようになった。だけどこのペボだけは、いつまでも僕にこうして直接つっかかってくるのだから、苦手だと思うのも仕方がない。
「はあ~? 知りませんけどぉ~? あーあ、あの方じゃなく、オマエが死ねば良かったのになあ? 土砂崩れなんて、ヘボ魔術師のオマエには復旧できねぇもんなあ~?」
「……っ」
 酷(ひど)い言い草に傷つかない訳がない。こうして村に来る度に、嫌な気持ちになるのは分かっている。だけど僕が住む森の近くにあるのはこの村だけで、他の場所に買い出しに行こうにも泊まりがけの距離だ。食べ物を買いに行くのにそれは、流石(さすが)に現実的じゃない。
 それに、婆ちゃんはこの村のことが好きだった。今でも彼らは婆ちゃんを慕ってくれて、だからこそその喪失感をどこにぶつけたらいいのか分からないんだろう。
 その悲しみは僕にも身に覚えがあるものだから、僕を非難することで気が紛れるなら今は受け入れるしかない。婆ちゃんを大切にしてくれた気持ちが、きっとまだ彼らに残っているせいなのだ。いつか皆が折り合いを付けて昔のように接してくれる日が来ると信じている、なんて言い訳をして、結局僕は彼らとぶつかり合うことを避けているだけだ。
「石鹸と布巾。あるだけちょうだい。それと、新聞も」
「ははっ、魔術師サマは景気が良いねぇ。あやかりてぇもんだ」
 それでもせめてここに来る頻度を下げようと、僕は必要以上の数を鞄に入れた。ニヤニヤと嫌な笑いを浮かべるペボに支払いを済ませて、足早に店を出ようとした。
「おい、ヨイ」
「何――……っ!」
 大きな影。ペボの手が、僕の顔の前へ向かってきた。
「ひっ……!」
 身体が竦(すく)み、勝手にビクリと震えた。得体の知れない恐怖心が湧き上がり、目をギュッと閉じてしまう。
「はははっ。オマエ相変わらず、こんなん怖ぇのな? 何、殴られるとでも思ったかァ? 殴って欲しいかァ? はははっ」
 恐る恐る目を開けると、ペボは馬鹿にしたように笑っていた。昔から、僕は顔の周りに手を寄せられるのが怖い。理由は分からないけれど、頬に触れられたり、頭を撫でられたりするのも怖くて無理だ。
 ペボは小さい頃からそれを揶揄(からか)ってきたけれど、婆ちゃんが生きていた頃にゲンコツを落とされて、それからしなくなっていたというのに。
 まだ覚えていたのか。
 僕は小さく震えたままの手をギュッと握り込んで、何も言わずに雑貨屋を後にした。
 美しく広がる青空が眩(まぶ)しい。
「はあ……」
 そして、知らず知らず詰めていた息を吐く。もう何年も、この村では気が抜けない。少しは態度が軟化してきたとはいえ、いつまでこれが続くのだろうか。
 僕は意識して深いため息をついた。大きく息を吸って、そして少し止めてから一気に吐き出す。すると新鮮な空気が胸の中に入り込み、身体に染みついたモヤモヤも外へ吐き出せる気がするから。
「……よし、切り替えた。さっさと家に帰って、美味しいお昼ご飯を食べる! ついでに今日は多めに野菜を収穫して、凝(こ)った料理しちゃおうかな~」
 いつまでもうじうじしていても仕方がない。僕は拳を握って、森へ帰る道へと踏み出した。

 目の前で揃って並ぶ畝(うね)は美しく、この数年徐々に広げていった畑には我ながら惚れ惚れとしてしまう。
 肥料を撒(ま)いて休ませている土はふっくらと柔らかく、歩く足が沈み込むようだ。
 昼前でも日陰になっている畑の端には、まだ朝露が残っている。葉っぱがキラキラと輝いて、その下にあるだろう大ぶりの芋は贅沢な宝物だ。
 蒸してバターを付けようか、いやいや、薄切りにして揚げるのもいい。揚げたての芋に塩を付けて、熱いまま食べたらパリパリで……はっ、いけないいけない、よだれが出ていた。
 口元を袖で拭い、地面に置いていた麻袋を手(た)繰(ぐ)り寄せた。
「えーと……どこから引っこ抜こうかな――って、あれ? 魔獣が捕まった?」
 リンと鈴が鳴るような音がして、僕の設置した魔術陣に何かが引っかかる感覚があった。
 知性を持つ大型の魔物はこの大陸にはいない。だけど家畜によく似た味の小型魔獣はこの森にも存在していて、僕の食べている肉の殆どはこうして捕まえた魔獣や動物のものなのだ。
 ウサギから羊くらいの大きさの魔獣なら、魔力も攻撃力もさほど高くない。遠隔攻撃のできる魔術師にとっては大した敵じゃないし、僕みたいな平凡な魔術師でも魔術陣で捕獲することが可能なのだ。
 魔獣は身が引き締まっていて本当に美味しい。牧場で飼育されている牛や羊にも負けない美味しさの魔獣たちは、もはや単なる僕のご飯でしかない。滅多にこの近くには出てこないせいで、久しぶりのご馳走の予感に胸が勝手に高鳴ってしまう。
「さてさて、今日はなんだろなー。肉の柔らかいラビッツかなー? それとも野(や)趣(しゅ)溢れるボアーかな? ああ、冬前に沢山ベーコンを仕込みたいし、まるまる太ったポクーも悪くないなぁ」
 ようこそ、僕のお肉ちゃん。
 だけど浮き足立つ僕を出迎えたのはラビッツでもボアーでもなく。
「え? ひと?」
 くすんだ金髪で僕を睨(にら)みつける、まだ成長途中の少年だった。
 親の敵のように僕を睨む瞳は薄緑色で、切れ長の瞳は睫(まつげ)も長く、一歩間違えれば美女にも見えるその美貌は、今は憎悪を隠すことなくキツい視線を僕に向けている。
 僕、何もしてないのに?
 あっ、罠(わな)にはかけたか。
 だけど、こんな森の奥に人間が来ること自体想定してなかったし。そもそも確かこれ、人間は捕獲範囲外にしてたはずなんだけどなあ?
「おっかしいなあ? どこか間違ったかな? 婆ちゃんに教わった通り……のはずだけど」
 とはいえ人間のお客様がこんな所に来ることは殆どないし、まあいいか。
 首を傾(かし)げながらも、動けずに地面に膝をついたまま睨んでくる彼を観察する。転んだ拍子に魔術陣に捕らえられたといった所だろう。
 ちゃんと手入れをすれば綺麗だろう金髪は泥で汚れていて、よく見たら顔も服も泥だらけだ。仕立ての良い黒い詰め襟(えり)の上着は金の前ボタンが全部外されて、そこから覗く白いシャツまで黒く汚れている。揃いのズボンも同じ様子だけど、木綿の僕の服と違っていかにも高級そうだ。黒い革靴には紐がなく、少し変わった仕立てだけど物は良さそうだし、貴族といった雰囲気ではないにせよ、良い家の子供だろうか。
 よく見れば、頬に殴られたようなアザがある。
「うーん? こんな所に来る子には見えないけどなあ? 僕はヨイ、君の名前は?」
「……」
 この魔術陣から出ようと足(あ)掻(が)いたのか、それともこんな森の奥に来るまでに魔獣と格闘したのか。貴族のお坊ちゃんの家出? ――にしてはこんな辺境に来る理由がないし。
 上から下まで少年を眺めながらも、人間より太ったポクーが良かったなんて考えていると、突然彼が大声で叫びだした。
「××××! ×××、××××××××××××!」
 うーん? 別大陸の子供だろうか。申し訳ないけど僕はこの大陸の言葉しか分からない。周辺国の方言でも恐らく聞いたことがないその響きは、どこか懐かしくもあるような、不思議な感覚だ。
「○○○○○○○○○○○○? ○○○○○○○○○……!」
 少年は先ほどとは明らかに違う言葉を話してきた。この子はいくつか言語を持ってるのだろうか。
 どちらにせよ僕には分からないけれど、高度な教育を受けた貴族か商人の子供かもしれない。ややこしいことに巻き込まれるような気配を感じて、できたら回れ右をしたいけれど、見つけてしまったからにはそうもいかない。
 少年を縛り付けていた魔術陣を半分だけ解き、浮遊の魔術を重ねてかけた。と言っても地面からほんの少し浮かせるだけだけど、重い荷物を運ぶときには大層楽な僕の得意魔術だ。
 少年は既に僕と体格が変わらないように見えるから、暴れられたら困るしね。なお僕が小さい訳ではない。この少年が少し大きいのだ、うん、そうなのだ。小さくは、ない。
「はいはい、一回僕の家に行くからね~」
 威(い)嚇(かく)のような声を上げる彼の手を引っぱって、僕はすぐ目の前の家へと帰ることにした。何せ泥だらけだし、衛生状態の悪い中ではきっと建設的な話し合いもできないだろう。言葉は通じないけれど、ひょっとしたら婆ちゃんの残した膨大な書物の中に、言語に関する資料があるかもしれない。
 僕がそれを操れるかは、また別の話だけど。
「×××、×××!?」
「しー。静かに。あんまりうるさいと、魔物が出てきて食べられてしまうよ」
 唇に人差し指を当てて、ギャアギャアと騒ぐ少年に凄んでみる。水面のように煌(きら)めく彼の瞳をじいっと見つめ、子供だましの脅しをかけてみた。
 言葉は通じないだろうにどうやらそれが効いたようで、少年はぴたりとおとなしくなった。
 握りしめてくる彼の手からも力が抜けたようで、その手のひらは少し熱を持ったように感じる。
 見れば少年の美しい顔はほんの少し赤みを帯びていて、手を繋がれるのが嫌だったのかなと思わなくもない。まあまあ、そんな年頃だもんね。家までほんのちょっとだから、男との手繋ぎも我慢して欲しい。僕もできれば美女と手を繋ぎたかったよ。
「ん。そうそう、おとなしくしておいてね。ほら、あそこが僕の家だよ。お風呂に入って、ご飯も食べよう。その間に僕は、君の言葉をどうにかするからね」
 少年特有のまだ柔らかい手のひらは、僕と似てるようで少し違う。荒れもせず、剣ダコがある訳でもないこの手からするとやはり、上流階級の人間なのだろう。
 すっかりおとなしくなった少年をふわふわと引っぱりながら、僕は家の扉を開いた。
 まずはこの少年を、綺麗にしてあげなければ。
「お風呂行こ、ね? さっぱりしたらきっと気持ちいいよ」
 だけど手を引き脱衣所に連れて行っても、ここが何をする場所なのかなかなか伝わらない。
「ええーっと。お風呂。ここ、身体を綺麗に洗う所だよ。ゴシゴシ……分かる? ゴシゴシ」
 身振り手振りで伝えようとする僕を、彼が訝(いぶか)しげに見つめてくるから身の置き場がない。一人で馬鹿なことをやっているみたいで、顔に熱が集まってしまう。
 仕方なしに僕が自分のボタンを外してこうするのだと教えようとするが、慌てた様子でシャツの前をかき合わせられてしまった。それならと彼のボタンを外そうとすれば、それはそれで驚いた顔をして身体を離すのだから困ってしまったのだ。
「ううーん……? あ、そうだお湯。お湯を触ったら分かるかな?」
 結局隣の浴室に手を引いて連れて行き、湯船にお湯を出して見せた。そうしてようやくここが入浴する場所なのだと分かったのかコクンと小さく頷(うなず)いてくれた。
 暫(しばら)く見守ろうとする僕を脱衣所から追い出したのは解(げ)せないが、年頃の子はきっとそういうものなのかもしれない。
 とにかくお風呂でゆっくりしてもらって、身の上話でも聞いてあげよう。こんな所に迷い込むくらいだから、きっと何か訳ありな子なんだろう。
 そのためにもやはり最優先は言葉だ。僕はこの家で一番英知の詰まった部屋へと向かった。

 小さな窓から入る光はカーテンによって柔らかく遮(さえぎ)られ、婆ちゃんのお気に入りだった長椅子が優しく照らされている。
 この家自体はそんなに大きくないけれど、婆ちゃん専用となっていた書庫は随分広くとられていて、その壁一面に作り付けられた本棚には、みっちりと蔵書がしまわれている。その殆どが魔術関係のもので、僕も一通り確認はしてるもののまだ中身までは読めていない本が多い。他大陸の言葉で書かれた本も沢山あって、なかなか僕には理解できない……という悲しい事実もあったりする。
 棚にしまわれた本の背表紙を、そっと指でなぞった。
「えーっと……言語……言葉……この辺かなあ」
 そもそも魔術は便利なようで出来ることが限定されている。その力は個人に由来しすぎていて、ある人には簡単に使えるものでも、別の者には全く発動させることができなかったりするのだ。
 魔術師なんてひとくくりにされるものの、どうして魔術が使えるのか、その資質の由来さえまだ判明していないのだ。
 ただ可能性として一説には、救世主の血が混じっていると魔術師として覚醒しやすい、という話もある。そうなるとこのいまいちパッとしない僕にだって、過去に偉大な魔術師と呼ばれた、どこかの救世主の血が流れている……かもしれないのだ。
「まあ、見知らぬ救世主サマより知った婆ちゃんだけど。んー、言葉を共通言語にする……、翻訳……? あれえ、ないなあ……」
 王都で高名だったらしい婆ちゃんの魔術は本当に凄いのだ。子供の頃は本当に、婆ちゃんに出来ないことなんて何もないと思っていた。いつでも前を向いて、僕の背中を笑いながら叩いていた明るい婆ちゃん。
「……婆ちゃん……」
 いけない、しんみりとしてしまった。婆ちゃんが亡くなってもう二年も経つというのに。
 気を取り直してあれこれと本を漁(あさ)っていると、バスルームから水音が聞こえてきた。どうやら少年も観念してお風呂に入ってくれたらしい。
 とはいえ警戒するあの子をお風呂に誘導するのも大変だった。先ほどの少年の慌てた様子を思い出し、フッと笑いが零(こぼ)れてしまう。
 婆ちゃんが便利な魔術道具を遺してくれたおかげで、今も不安なくお湯が使えるのだから、ほんとに僕は恵まれてると思う。
 あの傷のない滑らかな手のひらは、間違いなく労働階級の人間のものではない。となると、あんな泥まみれで過ごすなんて真っ平ごめんだろうし。つまり見知らぬ他人にいかに警戒しようとも、温かいお湯で身綺麗に出来るという誘惑には抵抗できない。そして人間は風呂でさっぱりすると気が緩んでくれるものだ。
 ふっふっふ、僕って策士だな。
「あ、あった」
 分厚い本に挟まれて見落としていた薄っぺらい本を引き出してみると、そこには言語翻訳について記されていた。
「うーん……なるほどねえ」
 魔術は想像力とされているが、その本質はまだまだ謎に満ちている。
 だけどその想像力をどれだけ魔術として引き出せるか、そしてその魔術に対して自分にどれだけ出せる魔力があるのか、その二つが重要になっているのだ。
 だから人はその想像力を補うために魔術陣を作る。得意な魔術であれば、陣なんてなくても発動できるのだ。僕にとっての、少年を浮かせた魔術がそうだ。
 なおかつ魔術陣に魔力を乗せて書き写したものは魔術紙と呼ばれ、魔力のない人間でも使えるものになる。これは魔術師の能力次第で一回限りの使い捨てだったり、半永久的に使えたりするけれど、後者はその買い取り額に比例して難易度も上がるため、僕みたいな凡人魔術師が作り出すのは正直難しい。
 僕は手に持っていた本をパタンと閉じた。
 結局言語翻訳について記されていた内容は、ほぼ精神論に近く全く役に立たない。
「うーん、これは一朝一夕には難しいな」
 すぐにでも会話が出来たらよかったんだけどなあ。
 僕は本を元の場所に戻して、一旦その書斎を後にした。

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