書籍詳細

頼むから待ってくれ

SKYTRICK/著
榊空也/イラスト

定価 : 1,320円(税込)
発売日 : 2024/07/12

電子配信書店

内容紹介

お前に出逢うための人生だった

養父の残した借金のため男娼として働くサーシャは、ある日買い上げを告げられる。奴隷として買われたと絶望するサーシャだったが、買い上げた男はユライユ・ヴォルコフという大金持ちの獣人で、なぜかサーシャのために屋敷を建てていた。訳も分からずユライユに溺愛される日々を送るが、ユライユの恋人らしき人物が屋敷に訪れ、サーシャは家出を決意する。しかしその道中足を滑らせ、サーシャは川に溺れてしまう。消えゆく意識の中で蘇ったのは、寒い冬の日に出会った一匹の犬との記憶だった。「俺はお前の全部を愛している」サーシャはユライユの熱い想いに貫かれ……豪商イケメン獣人×戦争孤児の男娼の切なくも温かい、再会のラブストーリー!

人物紹介

サーシャ

娼館に勤める男娼。戦争孤児で、過去に貧しい生活を送っていた。

ユライユ

豪商の獣人。ある日突然サーシャを娼館から買い上げる。

立ち読み

【第一章】


「……疲れた」
 サーシャの呟(つぶや)いた声が薄暗い部屋にポツン、と落ちた。耳にはどこかの部屋で娼(しょう)婦(ふ)が楽器を演奏する微かな音が届いている。ぼんやりと視線を窓の外へ向ける。真夜中と言えど、ここは繁華街の一角である。華やかな街の光が、遠くの方に海みたいに広がっていた。店の一つ一つが煌びやかに光っているのだ。魔術師の齎(もたら)す魔法の光である。
 客の男が部屋から出て行った後も暫(しばら)く、サーシャはベッドの上で横たわっていた。今夜の相手は殊(こと)、趣味の悪い客だった。行為中に短剣を咥(くわ)えさせられたせいで口内に血が滲んでいる。
 この娼館で働き始めた当初はまだ温厚な客を相手にしていたが、二十一歳になった今ではサーシャも年長者の一人だ。若い奴らに凶悪な客の相手をさせるわけにはいかない。
 仕事を終えた体は酷い有様ではあったが何とか起き上がり、冷や水で体を洗い流す。
 口の中が切れていてうまく喋れない。ずっと鉄の味がする。短剣の味か、血のせいか。幸いにも今夜はこれ以上予約が入っていない。しかしこれで明日も接客できるのだろうか。
 サーシャは立ち上がって部屋の外に出た。茶色の長い髪が歩くたびに揺れる。衣装のワンピースは娼婦が着ている物と殆(ほとん)ど同じで、彼女たちより背の高いサーシャ用にあつらえてはいるものの、サーシャも女たちと同じく細身ではあるから、然程(さほど)衣装の見た目は変わらない。
 しかし疲れた。今宵はもう眠ろう。明日も早いのだから、余計なことは考えずに床に就くのだ。
 左目の眼帯の位置を直し、重い身体を引きずりながら廊下を歩いていく。
 すると途中で、「サーシャ」と呼び止められた。
「館主様」
「サーシャ、終わったか。こっち来い」
 娼館を営む館主だ。無愛想で見かけは怖いがサーシャも信頼している男である。昔から世話になっているが彼が声を荒らげた姿を見たことがない。逃げる遊女には容赦がないらしいので、誰も逆らわないのだ。
 館主の部屋は豪勢だった。滅多なことがなければこの部屋に招かれることはないので、サーシャの内心はあっという間に緊張で張り詰める。
 背もたれの高い椅子に腰掛けた館主は顎(あご)で促した。導かれてサーシャは机の前に立つ。
 館主は開口一番に、絶望を告げた。
「サーシャ、お前を買いたいと声がかかった」
 サーシャは唇を一文字に引き締める。現実感のない言葉に一瞬だけ意識が乖(かい)離(り)しそうになるのを、無理矢理に引き戻した。
 つまり。
「……か、いあえ、れすか」
 買い上げだ。
「そうだ」
「な、なんれれす……いきなりすぎあせん?」
「お前喋り方どうした」
 館主が訝(いぶか)しげに目を細めた。彼の机にはいつも紫色のかすみ草が飾られている。サーシャは花を凝視しつつ、虚(うつ)ろに呟いた。
「刃を咥えさせられたので……」
「何だと?」
「あの、お、おれ! そんなにらめれしたか!?」
 買い上げ。買い上げ。戦地に送り込まれる前線兵のような気分だった。間違いなくそこには死が待っている。サーシャは既に泣きそうな声で懇願する。
「ごめんらさい。もっと、もっと稼ぎますのでまだ買いあえらけは」
「決まったことだ」
 サーシャの顔から血の気が引いた。手先は冷たいのに背中が焦燥感でカッと熱くなる。
 なんてこった。地獄行きが決まってしまった。
 頭が真っ白になって呆然とするサーシャに、館主は酷薄に言い放つ。
「八時間後にお客様の車が迎えにくる」
「……」
「それまでに身の回りのものを整理しておけ。口は……まぁ当分喋るな」
「……」
「分かったな」
 死んだ!
 もう何も考えられなかった。どうやって部屋に戻ったのかも定かでない。広い部屋に二十人近くがひしめき合って眠る部屋であるが、まだ皆仕事中で出払っていた。
 サーシャは自分のブランケットに包んである、布で作った鞄を取り出した。そうは言っても命令に従うようにこの体はできている。少しのお金と化粧道具、それに小物たちを鞄に仕舞い、それから部屋の窓へヨタヨタと這(は)って行った。
 窓際の壁に寄りかかる。長い髪が夜風で気弱そうに揺れた。窓から外の煌(きら)びやかな夜の世界を眺めていると、ようやっと右目から涙が溢れてくる。
 あぁ俺は死ぬんだ。この国の『買い上げ』には自由になるという意味はなく、すなわち奴隷化か死ぬことが殆どだ。客が金を払って男娼や娼婦たちを辞めさせるのが買い上げで、大抵の場合買い上げ先では酷い扱いを受けることが多い。買い上げられた仲間も、初めの方は便りがあっても、次第に途絶えていく。
 サーシャは男娼として働き続けていた。片目やたまに爪など売りつつ養父の遺した借金をコツコツ返済している。娼館での給与であと三十三年もあれば返済できる予定だったのに。
 なぜこんなことになったのだ。買い上げ? どうして。買い上げにだって金がかかるし、サーシャの場合は借金もあるのだからその分を支払ったはずだ。なぜ? 爪も脆(もろ)く片目もない自分を買う人間がいるなどと思えない。
 人間……ではないのか。
 サーシャは息を詰めて指を唇に当てた。
 獣人か? 人肉を食らうと聞いたことがある。他の娼館から餌のために人間が買われたと女の子たちが噂していた。男の性器が美味いから男娼が好まれるらしい。そんなわけあるか、獣人は人肉なんか食わない。そう鼻で笑っていたが、まさか……。
 あぁこんなことなら残っている目玉でも内臓でも睾(こう)丸(がん)でも売って金を稼いでおけばよかった。長く伸ばした髪ももう要らないんだなと月光に透かして見ていると、娼婦が一人部屋に入ってくる。
「サーシャ? 何をしているの? お仕事は?」
「……今日はもうおあった」
 サーシャは慌てて涙に濡れた片目を強引に拭った。その拍子に口元の傷に触ってしまう。止まっていた血が溢れ出し、それを見て娼婦が小さく悲鳴を上げた。
「あら、口が……っ! 切れているのね!?」
 この娼館にいるのは心優しい遊女や男娼ばかりだ。昔からここで共に働いている娼婦、インナは心配して駆け寄ってくる。
「また酷いお客様が来たの? 今度は何をされたのよ!」
 サーシャは軽くかぶりを振って「たいしたことあない」と笑いかけた。安心させるために笑顔を作ったのに、インナはますます痛ましそうに表情を歪める。
「サーシャ……ごめんね。私たちの代わりにサーシャが恐ろしいお客様の相手をしてくれてるのよね」
「んなあけあるか。あいつらが勝手におれをえらうあけあよ」
「サーシャ……」
 インナは羽織をギュッと握りしめる。なぜこんなに早く上がっているのだろうと考えて思い至った。
 インナは病に侵(おか)されて体力がなくなっている。髪が抜け始めているとも言っていた。サーシャはふと思い立ち鞄の中から剃刀(かみそり)を取り出す。
 そして迷いなく自身の髪に刃を当てた。
「サーシャ!?」
「おいしょ」
 もうこの長い髪も要らない。茶髪を大(おお)雑(ざっ)把(ぱ)にザクザクと切り、一束に括る。髪の美しさだけは自信があるので、こうして財産になって本当によかった。
「インナ。この髪使えよ」
「え……っ」
「病気で髪が抜け始めてるらろ。カツラなんて買えないらろうからこの髪を使って作ればいい」
「ど、うして。サーシャの髪が……」
「もうそろそろ切ろうと思っていた頃なんら。使ってくれ」
 インナは震える唇を開く。随分時間をかけた後、綺麗な目に涙をいっぱいに浮かべて「ありがとう」と掠(かす)れた声を出した。
 インナは髪を大事そうに握りしめて横になった。ブランケットに包まれた肩が震えている。
 一方でサーシャはどうにも眠る気にならず、部屋を出ることにした。同じ空間にいたのならインナが安心して泣けないと思ったのだ。
 敷地内の庭を歩き、ちょうど良い岩に横たわる。娼館を出る準備と言っても持ち物なんてこの小さな鞄一つだ。あと数時間後にここを出る……娼館を出るには死ぬか買い上げを受けるしかない。逃げられるはずもないし、明日からは地獄の生活が始まるのだ。
「はぁ……」
 娼館街は大きな壁と川に囲まれている。たまに逃げようとした遊女や男娼が川にぷかぷか浮いていた。どす黒く変色した皮膚や異臭を知っていて、逃げようとする奴らはあまりいない。
 外の世界から繁華街の明かりが漏れている。この近くにある鹿羊肉の料亭をいつも部屋から見下ろしていた。時折見える、夜中でも明るい外の世界の人々は、楽しそうに酒を呑み、安心しきって享楽に耽(ふけ)っていた。
 こうなってみると娼館で生きていく生活すら羨(うらや)ましかった。短い人生だ。年は推定だが二十一。いや、まだ生き永らえた方か。
 あーあ……一度でいいから鹿羊の肉を食べてみたかったな。
 あれは頬が落ちるほど美味いらしい。
 死んだ世界にも鹿羊の肉はあるのかな。でも俺はどっちに行くんだろう。炎の地獄か天の花国か。
 鹿羊の肉……。一切れでいいから……。小指の爪ほどでいいんだ。
 サーシャは力なく目を閉じる。夢と現(うつつ)の狭間を随分と長い時間彷徨(さまよ)う。
 虚ろな夢の世界でケーキや酒、鹿羊が踊っていた。どれもサーシャが口にしたことのない高級品ばかりだ。鹿羊の骨つき肉がサーシャの前で陽気にダンスし、駆けていく。
 いいなぁ。あぁ待ってくれよ。少しでいいんだ。お前を夢見てた。何だか楽しそうだな。そんな軽やかに駆けていかないで。すごく足が速いんだな。肉になっても脚力は健在なのか。
 待ってくれ……。


「どうだ。美味いか」
「……?」
 サーシャの前には未だかつて見たことのない輝かしいシルクの布がテーブルに広がり、そこには目を疑うほどの料理の数々が並べられている。
 眼前には茶色い肉が盛られた皿がある。
 無花果(いちじく)と赤ワインを和えたソースのかかった鹿羊の肉だ。
「鹿羊の肉が食いたかったんだろう。味はどうだ。美味いか」
「……」
 サーシャは肉を咀嚼(そしゃく)し、嚥(えん)下(か)してからも、何も答えられずに硬直している。
 それでもやはり肉は美味かった。頬が落ちるほど美味いと噂は聞いていたがこれほどまでとは。しかしこの感動を言葉にできない。まるで言語の通じない土地で萎(い)縮(しゅく)してしまったように言葉が出てこない。
 テーブル越しにはサーシャを買い上げた男が座っている。
 銀色の短髪が麗しい美男だった。若そうに見えるが年はサーシャより上だろう。しかし醸し出すオーラは圧倒的で、若さを凌(りょう)駕(が)する存在感を放っている。サーシャを迎え入れるだけなのに、立派な正装に身を包んでいた。黒いコートは金の刺繍の装飾が施されており豪勢だ。使用人の数や屋敷の広さからも、とんでもないお金持ちに買われたことが分かる。
 彼の背後には料理人と女中たちが控えている。皆、なぜか、やけにあたたかい眼でサーシャを眺めていて、サーシャはずっと困惑している。
「美味いか。どうなんだ。口を怪我しているのだろう。柔らかく刺激の少ない味付けにさせたが口内は痛むか」
 男が矢継ぎ早に問いかける。サーシャは唇を引き締めて黙り込んだ。
 ……どうしてこうなった?
「好みの味ではなかったか? すぐに作り直させるが」
「……えっと」
「あぁ、まだ喋りづらいだろう。無理に喋らせて悪かった」
「いえ。美味しいれす……」
「そうか!」
 舌足らずな喋り方で味気のない感想を呟いただけなのに、男は花が開いたように無邪気に笑う。
 後ろの料理人たちも「おお、美味しいと」「感激ですな」とほっとして笑い合う。目の前の男は鷹(おう)揚(よう)に頷いた。
「そうかそうか! 美味いか! なるほどな!」
 女中たちがくすくすと「まぁユラ様ったらはしゃいでしまって」「サーシャ様が美味しいとおっしゃいましたよ。うふふふ」と笑う。煌びやかな空間だった。笑顔と美しさしか存在しない。ここは天国か?
 サーシャはこの空間の全てが理解できなかった。ますます縮こまるが、男は綺麗に微笑みかけてくる。
「腹が減っているだろう。長旅だったからな。ゆっくり食事を取るといい」
「……は、はい……」
「それからは、そうだな。まずは髪を整えるか。お前が遊女に髪を渡したと聞いた。なに、職人の手にかかればがたつきも直るさ。サーシャは美しい髪を持っているから見違えるぞ」
 どうしてそのことを知っているのだ。頭の中にはてなが密度高く埋まる。窒息しそうな勢いだった。
「それから風呂だな。お前は身体に傷があると聞いたからサーシャ専用の風呂を作らせた」
「あ、の……」
「部屋は別邸を建てたんだ。幾(いく)つも寝室を用意したから好きな部屋を使うといい。サーシャだけの屋敷だ」
「えっと」
「腹が減ったら使用人に言え。俺がいなくてもすぐに用意してくれる。専属シェフは高名なレストランの料理長をしていた男だ。頼もしい限りだな」
 背後の老シェフたちが「ははは、身に余るお言葉」「腕を振るいましょう」と快活に笑い声を上げる。女中がサーシャのグラスに白ワインを注いだ。ケーキを取り分けたシェフが、「こちらは王宮御用達のピーチタルトでございます」と差し出してくる。
「何か望むものがあるならすぐに言いなさい。取り揃えよう」
「ちょっと……」
「これも鹿羊の肉を使っている。サーシャ、傷が痛まないなら食べてみるといい」
「ま、待って」
 頼むから。
「ようこそサーシャ。お前がここの生活を気に入ってくれると良いんだが」
 男の朗らかな美しい微笑みを片目で見つめて、サーシャは唖然(あぜん)としていた。
 待ってくれ。
 一体何が起きている?


 サーシャを買い上げた男は、名をユライユ・ヴォルコフといった。
 屋敷の者からはユラ様と愛称で呼ばれている。かなりの長身で眉(び)目(もく)秀(しゅう)麗(れい)。威風堂々としており時折厳しい口調の物言いをするが皆からは愛されているようだった。年はサーシャよりも四つ上の二十五歳。若いのに屋敷の主をよくやっている。
 その内実は都市を牛耳る豪商の一人だ。田舎の娼館で働いていたサーシャには無縁の男だった。
 ユライユ・ヴォルコフの名は声望高く、かたやサーシャはただのサーシャだ。店に来たことも話したこともない彼がなぜ自分を買い上げたのかまるで見当がつかないし、ユライユもまた語らなかった。
「サーシャ様、お目覚めでいらっしゃいますでしょうか?」
「あっ、はい」
 ユライユ邸で暮らし始めて一週間が経っている。
 サーシャはこれまで生きていくためにどんな場所でも寝ていたし、どれだけ貧相でも、食べられる物ならば腐っていても口にしていた。
 渡り鳥のように居住地は変遷(へんせん)し、それに慣れるのも早かった。
 だがこの暮らしはどうだ。一週間が経っているのに一向に馴染む気がしない。
「朝食をお持ちいたしました」
 女中がカートで朝食を運んでくる。寝起きのサーシャは急いで食卓用のテーブルに着いた。髪を整えてみるが、毎日の手入れにより寝癖すらついていない。
 女中は実に速やかな手つきで次々と皿を並べていく。サーシャはろくに反応もできず見守った。
「キクリ麦のブレッドとベーコン、採れたての卵でございます。こちらは新鮮野菜を使ったサラダです。ジャムは四種類ございますわ。メロンとクランベリーのタルトもお作りいたしました。リスンティーにはお好みでミルクをお入れくださいませ」
「ど、どうも」
 ミルクが腐っていない。白い。どろどろしていない。小分けにされたミルクを凝視していると女中は「サーシャ様はミルクがお好きなのですね。ホットミルクもご用意できますがいかがいたしましょうか?」とにっこり微笑みかけてくる。
「え、あ、いや、大丈夫です。冷たいので結構です」
「そうですか。お水はこちらになりますわ。タルトをお分けいたします。どれほどお召し上がりになりますでしょうか」
「えっと、じゃあこれくらい」
 親指と人差し指で雑に示してみる。彼女はパッと顔を明るくした。
「まぁ! これくらいですか。それはどれくらいなのでしょうか。きっと少しですのね。サーシャ様は少食でいらっしゃる。可愛らしい! ユラ様が大事になさるわけですわ!」
「あぁ可愛らしい。愛おしい」と女中はウキウキでタルトを取り分けている。サーシャはぽかんと一連の行動を眺めていた。
 全く不可思議であるのは屋敷の者たちのテンションがなぜか高いことだ。事ある毎にサーシャの言動に喜び「ユラ様が」「ユラ様の」と主人を慕う言葉を口にする。
 サーシャはいきなり娼館から買い上げられた不潔な男だ。屋敷の素晴らしい人々が薄汚いサーシャを厭(いと)う理由はあってもこうも受け入れる理由が分からない。サーシャはこの屋敷で疑問に満たされながら過ごしている。
 屋敷にサーシャを蔑(さげす)む者はいなかった。サーシャが長年男娼をしていて、毎晩幾人もの男に抱かれたり女を抱いていたりしたことは知っているはずだ。だが屋敷の者たちはそれに触れてこない。
 育った環境のせいかサーシャは他人の感情の機微に敏感だ。自分を内心で嘲(ちょう)笑(しょう)したり侮ったりする人の加虐心を見抜くのに長けていると自負している。しかしおかしなことに、彼らからは侮(ぶ)蔑(べつ)はおろか同情や憐れみすら感じられなかった。
 彼らの感情を一言で言うと感激、だ。二言で言うとテンションが高い。サーシャが屋敷にやってきたことをありのまま喜んでいる。誰一人顔を曇らせる人間がいなかった。
 初めに風呂で世話になった使用人の男は、サーシャの身体に広がる傷を見て「あぁ、おいたわしい」とほろほろ涙をこぼしていた。サーシャの片目を掃除してくれた時も、「なんと強引に目を奪ったのでしょう」と怒りを見せていた。
 彼らの感情は熱意に近かった。泣いたり怒ったりしても最終的には「私どもがまっさらに完治させます」と仕事への情熱に変わっていく。
 一体ここは何なんだ。サーシャは呆気に取られるばかりである。おかげさまで毎日薬を塗りたくられ、内服薬も完備された。
 セックスドラッグや性病予防のための薬は知っていても病気を治すための薬など初めて見た。娼館では病気に罹(かか)ればお役御免だ。働けなくなった数日後に死ぬのが常である。
 病気は治すものなのか。遊女たちのための薬もここにあるのか。サーシャは朝食後に内服薬を水で流し込み、ソファに腰掛けて何もせずにいた。
「御用がございましたらすぐにお呼びください」
「はい。ご丁寧にどうも」
「今晩はユラ様が帰宅なさいますから、お夕飯はお二人でお召し上がりくださいね」
「……はい」
 どうして自分はここに来たのだろう。
 考えても考えても分からない。ユライユ――ヴォルコフ様と呼んでいたが彼が「ユライユと呼んでくれ!」と前のめりで懇願した――とは面識がなかったし、もちろん娼館からかけ離れたこの都市にも馴染みはない。
「あ、あの」
「どうなさいました?」
 カートを引いて戻ろうとする女中を思わず呼び止めてしまう。
「ええっと……」
「はい。何でしょう? ゆっくりでいいですよ」
「あの」
「はい。待ちますよ。骨になるまで待ちますよ」
 なぜこんなにテンションが高い。
 なぜ自分はユライユに買い上げられたのか。
 訊(たず)ねようとするがどう言葉にすればいいか分からない。率直な質問は不(ぶ)躾(しつけ)かもしれないと迷った挙句、絞り出す。
「ユライユ様はどういったお方なんですか?」

続きは こちらからお楽しみください

配信書店
bluemoonnovels
タイトルとURLをコピーしました