書籍詳細

エリート官僚αとワケありΩの契約つがい同棲生活 ~フェイク・ハッピーエンド~ 

福澤ゆき/著
織尾おり/イラスト

定価 : 1,320円(税込)
発売日 : 2024/03/08

内容紹介

どうしてもお前を手放したくない

Ωというバース性のせいで、家族や周りの人から虐げられていた千早。ある日、同僚からのセクハラ行為に耐えていたところを、店の常連であるαの高斗に助けられる。その初めて触れた優しさを忘れられずにいると、突然高斗から「つがい契約」を持ち掛けられ、三か月の同棲生活をすることに。共に暮らしていく中で、次第に高斗に心を揺さぶられていく千早。しかし千早には誰にも言えない過去があり、高斗への募る想いを押し殺していた。そんな中ヒートを迎えてしまった千早を、高斗は熱い眼差しで貫いてきて……。「お前をめちゃくちゃに抱きたくて、抑えられない」契約から始まったエリート官僚α×ワケありΩの、切なくて愛おしい初めての恋。

人物紹介

文月千早

Ω。誰にも明かせない過去があり、心に傷を負っている。

綾鳥高斗

α。エリート官僚。ある日千早に「つがい契約」を持ち掛ける。

立ち読み

 プロローグ

 皺(しわ)ひとつないシーツに覆われたふかふかのベッドの代わりに、上等な革製のアンティークソファ。
 情事をするには少々狭いが、立ったままするよりは随分楽だろう。
 ネクタイを外しながら近づいてきた人物に笑いかけ、千(ち)早(はや)は息を弾ませながらそこに横たわった。
 ギシ、という古い音を立てて、火照った体が沈み込む。
 反転した世界で天井を見上げると、仕事部屋特有のLEDライトの煌々(こうこう)とした明かりが眩(まぶ)しくて、思わず目を細めた。
 それに気づいたのだろう、息を荒げて覆い被さろうとした高(たか)斗(と)がまどろっこしそうに舌打ちして電気のリモコンに手を伸ばしたので、千早は思わずその手を掴んで止めた。
「消さないでください」
「さすがに、眩しいだろ」
 彼の声にはまるで余裕がなかった。千早は今、抑制剤を飲んでいない。
 室内は、ヒート期特有の甘いようななんともいえない匂いで満たされていた。
 欲望に満ちた、まるで飢えた獣のような目で見下ろされ、千早はゾクゾクと背筋を震わせた。
「いいんです。このままが好きなので……はやく……っ」
「はぁ、ほんとお前って筋金入りだよな」
 心底呆れたように呟かれた言葉を聞いて、千早は安堵した。
 よかった。気づかれてない。
 本当は、恥ずかしくてたまらない。
 ヒート中の醜く発情した顔なんて、誰にも見られたくない。
 だがそれ以上に暗闇が怖かった。
 こうして押し倒され、覆い被さってこられるとより一層怖くなる。
 だからちゃんと、明るい中で高斗の顔を見て安心したかった。
 相手が彼なら、何の不安もないから。
「まあ俺としても明るい方がいいけど」
 高斗はそう言って舌で唇をペロリと舐めて笑うと、フェロモンを放つ首筋に顔をうずめた。
「んっ……」
 熱い舌に舐めまわされると、体の奥からぞわぞわと何かが這いまわるような快楽を感じ、無意識に内腿をこすり合わせた。
 悪戯(いたずら)に軽く犬歯を突き立てられ、千早は高い声を上げて思い切り体をのけぞらせる。
「ひぁっ……、か、噛んじゃ、だめ……っ」
「噛まねーよ。最後まで理性が持てば、な」
 本当は思い切り、血が出るほど噛んで欲しい。そう叫びたくなるのを、シーツを掴んで耐えた。
「ここ、ビンビンになってるな」
 ぴんと勃(た)ち上がった乳首を指先で弄(いじ)られると、千早は生理的な涙をこぼして首を横に振った。
「ひっ、あぁ……っ」
「すげーな。涎(よだれ)出てる。そんなにここ触られるのが好き?」
「や、言わない、で……っ」
 耳元で囁かれ、恥ずかしさに思わず顔を両手で覆うと、彼はその手をそっと外した。
「体まで真っ赤だ。明るいところで見られるのが好きっていう変態の割に随分シャイだな」
「ち、が……っ、あっ、うっ……っ」
 ピンと指先ではじかれ、ひと際高い声を上げて背を弓なりにしならせるが、高斗は飽きもせずに指の腹で挟んで尚も扱(しご)いた。
「……っ、そこ、ばっか、やめ……っ、ああっ」
 いやいやと頭を振り、涙で滲(にじ)んでぼやけた視界で、懇願するように見上げると、高斗が低く呻(うめ)いた。
「……千早、ほんと可愛い、なんなんだよお前……」
 次の瞬間、唇に触れた温かい感触に、千早は驚いた。
 そしてその後、にゅるりとした感触と共に舌が差し入れられ、口内をくすぐるように荒っぽく這いまわった。
「んっ……くっ、ん……ぅっ」
(苦しい……っ)
 どうしたらいいのか分からず、酸欠でぼんやりする頭でそれを受けていると、高斗が慌てた様子で唇を離した。
「……はぁっ、はぁっ」
 ようやく息が吸えて肩で呼吸をしていると、高斗が驚いたように言った。
「まさかキスしたことないのか? 誰彼構わず寝てるのに?」
 図星を突かれ、千早は目を逸らした。高斗にはたくさん交際相手がいると伝えている。
「……そんなの、寝る時にする必要、なくないですか」
「普通マナーとしてするだろ」
「気持ちいいからセックスしてるだけで、別に好きな相手でもないのにしません」
「キスは気持ちいいんだよ。教えてやろうか?」
「……どーぞ」
 投げやりに言うと、再び唇が重ね合わされた。
 慣れないキスに少し緊張してシーツを握りしめていると、高斗がその手を解くようにして自分の指を絡ませた。
「大丈夫、今度は苦しくないようにするから」
 先ほどのように荒々しくなく、ついばむような優しい口づけが繰り返される。
 やがてそれは徐々に深くなっていった。
(どうしよう。どうしよう、今すごく……)
 幸せだった。
 同時に、痛みに似た罪悪感がせり上がり、泣き出してしまいそうになった。
 誰かの人生をめちゃくちゃにしてしまった人間に、幸せになる権利はないと言う。
 それがたとえ、故意であっても、そうでなくても。
 だから自分は、幸せになってはいけない。
 そう思うのに、息をするのも苦しいぐらいに抱きしめられると、胸の中にしみこむような偽りの幸せに酔いしれてしまうのだ。

 第一話 出会い

 ──二か月前
 不夜城と呼ばれる霞が関でも、月曜日の早朝ともなればさすがに客が少ない。
 陳列が終わり、清掃も事務作業も終わってしまうと、レジに立つ千早は祈るような気持ちで夜が明けるのを見つめていた。
 店内に客は一人。
 若いスーツ姿の男性が栄養ドリンクコーナーに立っているだけだ。
 他に客がいないからと言って、あまりジロジロ見つめる訳にもいかないが、千早は一刻も早く、彼に会計をしに来て欲しかった。
 レジのカウンターの下で、千早の左手には同僚の手が重ね合わせられていた。
 生温かいその手は時折太ももや尻をまさぐり、少しずつ、少しずつエスカレートしていく。
「……っ」
 鳥肌の立つ不快な感触に少しでも身動(みじろ)ぎすれば、横で相(あい)沢(ざわ)がニタリと笑うのが分かる。耐えきれずに千早は体を離してその手を払った。
「くすぐったいのでそのぐらいにしておいてください」
 声が震えそうになるのを堪えて、笑顔でやんわりと制止するが、彼は「感じちゃった?」と嬉しそうに笑い、またしても手で尻を触った。
「違いますよ。そろそろ本当に……」
「いいの? 店長に言っちゃうよ。千早ちゃんがΩだって」
 その言葉に、千早はぴたりと抵抗をやめた。
 相沢にΩだと知られたのは、ほんの一週間前のことだ。
 常用している抑制剤をカバンに入れていたことを知られたのだ。なぜ彼が、千早のカバンを漁(あさ)っていたのかは分からない。
 金目の物は盗(と)られていなかった。
 元々、Ωと疑っていて、証拠を物色していたのだろうか。
 いずれにしろ、Ωだと知られた以上、彼に従うしかなかった。
 このバイト先を見つけるのに、Ωの自分がどれだけ苦労したことか。
 一〇年前に可決された法律。通称、バース法。
 年々深刻化するΩへの性犯罪を抑止するためと謳われていたが、絶対数が極端に少ないΩの性的被害に寄り添うものではなく、Ωに“誘惑された”αやβが、家庭崩壊や社会的地位を失うことを避けるための法律だった。
 Ωはいかなる職種であっても就業の際、必ず雇用主に自分のΩ性を告知する義務がある。
 Ωは抑制剤の服用義務があり、それを怠って他のバースの発情を誘発した場合は、法によって罪に問われる。
 他にも色々あるが、よくもこんな法律を作ってくれたものだと、Ωの身の上としては、恨まずにはいられない。
 雇い主にΩ性を告知すれば、トラブルになることを恐れられ、まず採用されない。
 だから貧困に苦しむ大抵のΩは法律に背いてβと偽って働くしかない。
 千早もそうだ。
 最近は規制が厳しくなり、バース証明書を提出しないと雇ってくれないところがほとんどだ。
 ここを辞めさせられたら、次がすぐに見つかるとは思えないし、貯金もほとんどなかった。
 服の上を熱い指が撫でまわす不快感に、胃から酸っぱいものがせり上がってくる。
 何も考えないようにしよう。
 触られたぐらいで傷つくほど、綺麗な体でもないと自分に言い聞かせ、嘔(おう)気(き)を和らげる。
 気づかない振りをして、カウンターの上のホットスナックをぼんやりと眺めているというのも、我ながら滑稽だと思う。
 釣銭トレイを見つめて俯(うつむ)きながら、片方の手が震えそうになるのを服の裾を掴んで堪えていると、ふと頭上で声がした。
「警察呼ぶか?」
 顔を上げると、先ほど栄養ドリンクコーナーに立っていたスーツ姿の若い男性客が、商品をレジカウンターに置いた。
 彼はそれ以上の言葉は言わず、千早の隣に立つ同僚を不快そうにちらりと見て、それから再び千早を見つめた。
 千早は少しの間、呆けたように目を見開いていた。
 話しかけられたのは初めてだったが、彼はこの店の常連だった。
 栗色の髪に、少し色素の薄い瞳。染めているという感じではないから、地毛だろうか。ひどく端正な顔立ちをしていた。
 スーツなど着たこともないから分からないが、とても上等なものなのだろう。
 明け方のコンビニにいるのが似つかわしくない。
 まるで高級ブランドのモデルのようで、思わず見とれてしまった。
「いえ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
「でも、さっきからずっとケツ触られてただろ?」
 風貌に似つかわしくない直接的な表現に、千早は微かに頬が上気するのを感じ、慌てて俯く。すると同僚が少し狼狽(うろた)えながらも、ニヤついた顔で言った。
「この子、Ωなんすよ」
 千早はギョッとして顔を上げた。それは誰にも言わないという約束だ。
 客の中には、Ωが接客をしていることをよく思わない人も大勢いる。店長にクレームを入れられて、Ωだと知られたらと思うと、血の気が引いた。
 男性客は、驚いたように目を見開いたが、すぐに首を傾げて言った。
「だからなんなんだ? 合意じゃなかったら、犯罪に代わりはないだろ」
「いや、でも……」
 相沢は男性の意外な言葉にもごもごと口ごもると、慌てた様子でレジから逃げ、特に用もないのに陳列棚に向かった。
 男性客は身をかがめて少し小声で千早に言った。
「マジで合意じゃないなら警察に行った方がいい」
 陳列棚の向こうから、相沢がこちらの言動を窺っていることに気づく。
「いいえ、合意でした」
「はぁ? そういうプレイだったっていうのか?」
「はい。そういうプレイでした」
「そういう風には見えなかったけど」
 客は明らかに懐疑的な顔をしていた。
 これ以上長引かせて、本当に警察に連絡でもされたら困る。
 そんなことになったら、逆上した相沢が、千早はΩだと店長に話しかねなかった。
「Ωは気持ちがいいことが好きなんです。お客様にはお見苦しいものを見せて、大変申し訳ありません」
 にっこりと営業スマイルを作って言うと、彼は尚も不可解そうに眉を寄せたが、「それなら邪魔して悪かった」とだけ言った。
(そうだ。余計なことをするな)
 胸の中で冷たい声がする。中途半端な善意は、迷惑にしかならない。
 それなのに、会計を済ませて帰ろうとする客を、千早は思わず呼び止めてしまった。
「あの」
「?」
「……ありがとうございました」
 彼はそれを「ご来店ありがとうございました」という意味として受け取ったのだろう。軽く会釈をして戻っていった。

 第二話 おとうと

 閑静な住宅街に佇む庭付きの広い一軒家。
 母が早(そう)逝(せい)し、身寄りのなくなった千早は十七歳の夏まで、遠戚であるこの文月(ふづき)家で育った。
 今はもう、義父母はここには住んでおらず、彼らの一人息子だけが取り残されたように住んでいる。
 この家には今も尚、深い傷痕が眠っていて、訪れるたびに千早は鳩尾(みぞおち)に冷たいものが落ちるのを感じる。
 無意識に震える指先でインターフォンを鳴らした。
 中から顔を出したのは、すらりと背の高い、美しい少年だった。
 彼、文月葵(あおい)は、千早より五つ年下の高校生だ。
 長いこと一緒に育ったので、今でも千早にとっては小さな弟のような存在だが、今はとっくに背丈も抜かれている。
 少し長めの髪はブリーチされて金髪で、Gパンにシャツ一枚だけを軽く羽織り、首筋には口紅の跡が残っているのが見え隠れしていた。
 まだあどけなさを残した天使のような美しい顔をしているが、たいそうな遊び人だ。
 そして、いつも千早に対して残酷に振舞う。
「おっそいね~。一〇分で来いって言ったのに」
「一〇分なんて、無理に決まってるだろ」
「言い訳はいいから、さっさと入って」
 顔に見合わない乱暴さで家の中に引きずり込まれる。
 部屋にはおそらく女性ものの、甘い香水の匂いが微かに残っており、物があちこちに散乱してぐちゃぐちゃになっていた。
 呆気にとられた千早の顔を見て、葵はうんざりとしたように言った。
「他にも女がいるって言ったら、ヒステリー起こしてさ。見てよこれ」
「…………」
「片付けといて。俺これから学校だから」
「そんなことのために呼び出したのか? 片付けぐらい、自分でやったらどうだ。大体……」
「俺に説教出来る立場なの?」
 葵の顔には信じられないほど酷薄な笑みが浮かんでいた。
 彼はこの五年間、千早をひどく恨み続けていた。週に何度も呼びつけては、雑用を言いつけ、反論しようとすると五年前のことを思い出させるのだ。
 贖(しょく)罪(ざい)の義務を、忘れさせないために。
「あーあと、腹減ったから適当になんか作って。シャワー浴びてくる」
 千早は溜息を吐(つ)いてパンを焼き、テーブルに置いた。
 香ばしいパンの焼けるいい匂いを嗅(か)いでも、全く食欲が湧かない。
 先ほど体中を触られた悪寒で、むしろ吐き気がした。
 育ち盛りの彼には、栄養が足りないかもしれないと、さらにハムエッグとサラダを添えてテーブルに並べる。
 バスルームから出てきた葵は、何も言わずに椅子に腰掛けて、それらを食べ始めた。
 その横で、散らかった服や空き缶を一つ一つ片付けていると、葵がこちらを見つめていることに気づいた。
「何?」
「食べんの飽きちゃった。残飯あげるからおいで」
 まるで野良猫を呼ぶように手招きをされ、千早は眉を顰(ひそ)めた。
「……いらない」
「あんたには俺に逆らう権利はないんだよ。ほら、こっち来てって」
 仕方なく、ゴミ袋を床に置いて葵の傍によると、彼はいきなり千早の顎を掴んだ。
「何を……っ」
 驚いて目を見開くと、まるで餌を放り込むように、葵はフォークで掬(すく)ったハムエッグを千早の口に放り込んだ。
「はい噛んでー」
 吐き出す訳にもいかず、飲み込むと、今度はパンを詰め込まれそうになったので唇を引き結んで顔を背けた。
 だが、葵は尚もぐいぐいと押し込もうとしてくる。
 やめろと言おうとして口を開いたところで、再び詰め込まれた。
「……何がしたいんだ」
「だって捨てるのもったいないじゃん? 俺、環境問題に敏感なお年ごろなんだよね」
「じゃあ自分で食べればいいだろう。人に作らせておいて何を……っ」
「飽きたから。昨日遅くまで酒飲んでたし、胃が重いんだよね。お味噌汁とかがよかったな」
「葵はまだ未成年だろう?」
 葵はだからなんだと言わんばかりに笑い、再びパンをちぎって千早に差し出した。
 無理やり口に詰め込まれるのは嫌だと、奪い取り、自分で咀嚼(そしゃく)した。
 食欲などなく、まるで砂を噛んでいるような気分だった。

 葵の部屋の片付けを終え、昼過ぎに、ようやく千早は家に帰ってくることが出来た。
 都心から遠い、駅から徒歩十五分弱の古いアパートだ。
 ドアノブはグラグラとしていて、頼りない。
 防犯の点は、まるでダメだ。何度か危険な目にも遭っているが、これ以上の住居は望めない。
 生きるために最低限度の金と、高額な抑制剤の代金を支払うと、雀の涙ほども残らない。
 風呂とトイレが共同ではないだけありがたかった。
 こんなボロでも、家は家だ。外を歩いている時はいつも、外敵に怯(おび)える小動物のように毛を逆立てているから。
 静まり返った部屋に帰ってきて鍵を閉めると、ようやく緊張の糸が切れて千早は座り込んだ。
 音もない部屋で、壁にもたれかかっていると、同僚の手が這いまわる感触が、つい先ほどのことのように思い出された。
「うっ……ぐっ……」
 慌ててトイレに駆け込み、二、三度えずくと、葵に無理やり食べさせられた朝食を全て吐き出してしまった。
 薬の副作用で気持ち悪かったのもあるが、思った以上に、同僚からのハラスメントに体がストレスを感じているようだ。
 口をゆすいで服を脱ぎ、そのまま勢いよく冷たいシャワーを浴びた。
 体に染みついた汚いものを全て洗い流そうとするけれど、どれだけ必死に洗っても、綺麗になった気がしない。
 冷たいタイルの壁に手を突くと、濡れた髪の毛から、涙のように雫がぽたぽたと床に落ちる。
 今日もひどい一日だった。
 今までと同じ、これからも、きっと同じ毎日の繰り返しだろう。
 生まれた時点ですでに道を踏み外していたのだから仕方がない。そう思わなければ生きていけない。
 だがそれでも、今日は一つだけいいことがあった。
 ──合意じゃないなら警察に行った方がいい
 他の誰かが自分を気にかけて、助けようとしてくれた。
 全く無意味で中途半端な善意だ。むしろ困らせられたのに、それでも千早は嬉しかった。
 不条理に取り巻かれた生活の中で、それはまるで砂糖菓子のように甘い出来事で、思い出すと不意に瞼(まぶた)が熱を持った。
 その温かさに元気付けられるように、千早はスマホを手にし、求人サイトにアクセスした。
 違う職場を探そう。
 必死に探せば、バース証明書が必須ではないところもあるはずだ。
 そう思いながら、千早は疲労から眠りに落ちてしまいそうになる目を擦り、求人を探し続けた。

 第三話 つがいを持て

「は……? つがいを持て?」
 高斗はキーボードを打つ手を止めないまま顔だけを上げ、父に言われた言葉をそのまま繰り返した。
 総務省の大臣を務める国会議員の父は、地元の人間には柔和な人柄で知られ人気を集めているが、家族や近しい者に見せる顔はまるで別人だ。
 そしてそれが、彼の本性だった。利己的で、金に汚い。人材会社から闇献金を受けているという黒い疑惑もある。
 昔から家にはほぼ帰らず、たまに家で夕食を取っても、一言も話さない。
 そういう父親だった。
 そんな彼が、珍しく仕事以外のことで高斗に話しかけてきたと思ったら、いきなり「つがいを持て」と言ったのだから驚いた。
「総理はつがい奨励法を強く推進してる。とうとう聞かれたよ。おたくの倅(せがれ)はαなのにまだつがいを持っていないのかとな」
「はぁ……」
 つがい奨励法は、現総理が最も力を入れている法案で、公約にも提示されている。
 バース法は、Ωの発情を薬で抑制することを義務付けており、飲まなかったことによって強姦事件が生じても、強姦されたΩが加害者になるという無茶苦茶な法律だ。
 さすがに人権団体を通じて抗議の声が上がっており、二年前に追加法案が可決された。
 不要なヒートを起こさせないためにも、αとΩのつがい関係を奨励する“つがい奨励法”。
 Ωはαとのみ、つがい関係を結ぶことができ、つがいになったΩは他の人間に対して発情することはない。必然的に、性犯罪の被害に遭うことも減る。
 そのため、この“つがい”という特殊な関係性を奨励するために、すでに婚姻関係を結んでいるαまたはΩが、別途つがいを持つことも不貞行為に該当しないと定められた。
 この法案のもう一つの狙いは、“この国におけるα人口を増やすこと”だ。
 Ωは世界的に見て、とても人口が少ないが、世界での割合からすると日本は比較的Ωが多く、逆にαは少ない方だ。
 Ωが多いと治安が悪くなると言われ、諸外国から敬遠されるし、αが多ければ多いほど、優秀な人間が多い国とみなされる。
 Ωは多産で、優秀なαをたくさん産むと言われており、将来的には少子化にも役立つという算段だった。
 相変わらず、これらの法案にΩの人権など、一ミリも考慮されていない。
 婚姻関係を結んでいるαまたはΩが、別途つがいを持つことが不貞に該当しないなど、どうかしているとしか思えない。
 そんなことよりも、副作用の少ない抑制剤の開発に金を出すなり、保険適用にして安価に手に入るようにするなりすればいい。
 こんなバカげた法案の討論に向けて、連日徹夜をする羽目になっているのだと思うと、深い溜息が出る。
「結婚相手は、しかるべき家柄の令嬢かと思っていましたが」
「もちろん、結婚相手は他と比べても遜色ない相手を選ぶに決まってるだろう。だが、子供を作るならΩが相手の方がいい。お前達兄弟がいい例だ」
 こともなげに言われた言葉に、高斗の瞳に憎悪が揺らいだ。
 高斗には一つ年上の兄がいるが、彼とは母親が違っていた。
 兄の母親は財閥というしかるべき家柄のαだが、その間に生まれた一人息子である兄はβだった。
 特にこれと言ってずば抜けて秀でた才能もなく、政治にも全く興味はなく、野心もない。
 それなりに名の知れた一般企業に就職し、順風満帆で、平凡な人生を歩んでいる。
 一方高斗の母は、父が気まぐれに手を出した愛人のΩだった。
 Ωと結婚する気がなかった父は高斗の母とつがいになっておきながら、飽きるとすぐに捨ててしまった。
 つがいを解消されたΩが、どれだけ精神にダメージを受けるかも考えずに。
 病んだ母に高斗を育てる力はなく、ほとんどネグレクト状態の中でなんとか生き延びた。
 一〇歳のバース検査でαだと判明すると、父は高斗を自分の元に呼び寄せた。
 それからは家庭教師を付けられて一日中勉強漬けにされ、マナーやら教養やらを身に付けさせられた。
 あげくに中学からはアメリカの学校に進学させられ、飛び級で院まで進み博士号を取得。
 正直目が回るほど忙しかった。
 それでも、病んだ母の元で育った時のことを思えば、二度とあの場所には落ちるまいとがむしゃらに上を目指した。
 母親は、高斗が高校生の時に衰弱死した。
 そのあまりに悲惨で哀れな最期が今でも忘れられず、高斗は今でも父を恨んでいた。
 その一方で、恐れてもいた。
 この世界においては、“持てる者”は“持たざる者”にどんな仕打ちをしても許されるのだと思い知ったからだ。
「とにかく、また総理から言われる前に、さっさとつがいを作っておけ。今後のお前のキャリアに差し支える。身寄りがなく、簡単に捨てられる者ならなんでもいい。どのΩを選んだところで大差はない。Ωは総じて金に汚い。黙っていれば金を定期的に渡すと言えば、生涯口封じになる」
「…………」
 果たしてそうだろうか。
 Ωである母は毎日、父の名前を呼んで泣いていた。金をいくら積まれても、どれだけ飢えて高斗が泣いていても、金にはほとんど手も付けずに残していた。
 全く反吐(へど)が出る。
 母の末路を想えば、つがいなど持ちたくない。これから“しかるべき”身分の女と結婚するなら猶(なお)更(さら)だ。
 父ほどに冷酷に割り切れる自信がないというのもあるが、高斗はこれまでの人生で人を愛せたことがなかった。
 恋人を作っても、定期的な性欲処理というのが目的で、相手に対して愛しいとか一緒にいたいだとかそういう温かい感情を覚えたことは一度もない。
 そしてこれからも、どう愛せばいいのか分からない。
 父のようになりたくないのに、父と同じ冷たい血が流れているのが疎ましかった。
 生涯大事にして添い遂げなければ、つがいにされたΩは母のような末路を辿(たど)ってしまうのかと思うと、あまりにもつがいという関係は重すぎた。
「お前が見つけないなら、こちらで適当に用意をしておく。気に入らなかったら取り換えればいいのだからな」
「待ってください。つがいぐらい、自分で選びますよ」
 どうしてもつがいを持たなければならなくなった時のために、高斗にはある考えがあった。
 一般的に“つがいになる”には二つの意味がある。
 一つは法的な書類手続き。互いのバース証明書と一緒に、つがい届を役所に提出する。
 婚姻届と似たようなものだが、出していない人間の方が多い。
 もう一つは肉体的なこと。
 セックスをして、Ωの首筋にあるフェロモン腺をαが噛み切ることで成立する。
 肉体的な“つがい”にならなければ、普通の恋人と大して変わらない。
 つがいを解消したとしても、母親のように精神的に病んでしまうことはないだろう。
 だがそれには、父の手の内にあるΩでは困る。父は必ず、次のαを産ませるために、つがい相手のΩを孕(はら)ませるように言うだろう。
 Ωとセックスする気も、つがいになる気も、孕ませる気もない。
 それならば自分で見つけて、自分で交渉するのが一番確実だろう。
 父に用意されてしまう前に、早急に手配しなければならない。つがいを持たないと、政界において今後のキャリアに差し支えるというのは本当だ。高斗は一日でも早く、今よりも上に行きたかった。
「一週間で決めろ」
「一週間……?」
「一週間後、総理との会食がある。その時までに決まらなかったら私が手配する」
「承知しました」
 Ω自体が希少だというのに、一週間でちょうどいい相手と出会える訳がないだろう。だが、父はいかなる反論も認めない。そういう男だ。
 だが、高斗もこのまま黙って延々父に従っているつもりはなかった。
 親として、いや、人として軽蔑している。
 おそらく闇献金を受け取っているというのも事実だろう。だが、父は用心深く、証拠を掴めずにいた。この先の父の横暴を抑えるためにも、言い逃れの出来ない証拠を掴んでおきたい。
 偉そうに出来るのも今のうちだと、心の中で中指を立てながら、高斗は父の言いつけに頷いた。

続きは こちらからお楽しみください

bluemoonnovels
タイトルとURLをコピーしました