書籍詳細

最強の男に懐かれている

梅したら/著
香坂あきほ/イラスト

定価 : 1,320円(税込)
発売日 : 2023/09/08

内容紹介

この人は私のものだ

“人に嫌悪感を抱かせる”という『呪い』を身体に刻まれたシュカは、人目を避け、路地裏で商人として暮らしていた。しかし、シュカのもとに“孤高の英雄”と噂される傭兵・イデアルが足しげく通ってくるように。真意がわからず追い払うが、めげない彼に頭を悩ませていた。そんなある日、『呪い』が急に強まりシュカの身体に激痛が走る。ピンチのシュカにイデアルは、自分に抱かれれば『呪い』を抑えることが出来ると言ってきて…!? 「私は死ぬまであなたを抱くよ」最強の男から、なぜか執着強めに迫られています!?

人物紹介

シュカ

粗末な露店の商人。二十年前、ある仕事に失敗して『呪い』をかけられた。

イデアル

流れの傭兵。なぜかシュカの店に希少な素材ばかりを売りに来る。

立ち読み

一章 最強の男と呪われた商人

「シュカさん、買い取りお願……」
「出禁だ出禁! もう来るなって言っただろう、イデアル!!」
『人間の国』の隅の方にある小さな町の、更に隅の路地裏。うさんくさい商人を自負する俺は、この場に似合わない華やかな男を必死に追い払おうとしていた。
 しかし努力も虚しく、むきだしの地面にボロ布を敷いただけの露店前に男はしゃがみ込んでしまう。
「そう言わないで、今日の獲物は自信があるから」
「自信があるような物を持ち込むなって言ってるんだが……!?」
 俺の言葉に残念そうに眉を下げながらも引く様子は全くない、この男の名はイデアル。
 曇り空の下でも艶やかに輝く黒い髪と蠱(こ)惑(わく)的な赤い瞳を持つ美丈夫だ。
 パサつく茶髪とくすんだ青い瞳の俺とは比較にならない。
 年下、しかも男などに興味がないはずの俺でさえ、目が合うと緊張するほどの色気を纏(まと)っていた。
「まあまあ、査定だけでもお願いします」
 イデアルの正体はいまいちわかっていない。本人曰(いわ)く流れの傭兵だが、傭兵にありがちな粗暴さが一切ない。口調は柔らかく、仕草も丁寧だ。
 しかし身につけた軽(けい)鎧(がい)は体によく馴染んでおり、何より立ちふるまいに隙がない。かなりの手練であることは見ただけでも容易に想像ができた。
 ――そのような観察などしなくても、イデアルが手練だというのはすぐにわかるんだが。「いや、一刻も早く帰ってくれ。炎狼の毛皮なんて買い取れるわけないだろう……! 入り口とはいえ、あの“死の森”に住まう魔物、普通は十人がかりでようやく倒すような相手……のはずなのに、あんたは一人で討伐するからこの毛皮には驚くほど傷が少ない」
「うん。頑張りました!」
「……しかも毛皮を採る頃には火が消えて価値が下がってるのが普通なのに、どうやったのか火がついたまま……こんな品、値段をつけられるわけが……!!」
「シュカさんの言い値でいいけどなあ」
 頭を抱える俺に、イデアルは平然と告げる。さすがに聞き流すことができず、顔を上げて睨(にら)みつけた。
「こんな店とも呼べないボロ店に、高級品を持ち込むなと言っている……!」
 イデアルが何気ない風に店先にドカンと置いたのは、専用の容器でなければ持ち運ぶことさえ難しい希少素材だった。薄い水の膜で作られた容器はそれ自体が非常に高価で、容器のみですら普通はこのような店には持ち込まない。
 店主である俺自身もボロボロのローブで顔を隠し、小柄な体を建物の陰に隠すように丸めて座り込んでいる。まともな人間ならそもそも近づくことさえしない。
 たまにゴミ捨て場を漁り、まだ使えそうなゴミを並べることすらある最底辺の店。
 来るのは訳ありの人間か、正規の店で買うよりも安く買い叩きたいケチな傭兵くらいだ。
「とにかくこれは、うちでは買い取り不可。他の店か商業ギルドに持ち込んでくれ」
「今日もつれないなあ、シュカさんは」
「つれないっていうならあんたの方だろう。噂になってるぞ、“孤高の英雄”とかなんとか」
「なにそれ……?」
「パーティーに誘われても断って、一人で炎狼なんて狩るからだ。先日は浮遊ゴーレム、その前は不可視の山鳥だったか。よっぽどソロに拘(こだわ)りがあるのか、パーティーを組めない事情でもあるのかって、他の傭兵が警戒と尊敬交じりにあんたの話をしているのをよく聞くよ」
「あはは、私ってそんな風に言われているんだ」
 イデアルがこの町に来てから、まだ半年ほどしか経っていない。しかし来たばかりの頃から、この男は大いに注目を集めていた。
 なにせ綺麗な顔と洗練された立ちふるまいの、ただでさえ目立つ人間が町に現れるなり路地裏のうさんくさい商店――つまり俺の店に向かったからだ。他の店の呼び込みを全て無視してまっすぐに。
 そして今のように露店の前でしゃがみ込み、ローブで隠した俺の顔を覗き込んだ。
『あの……お、お名前は……?』
『は? ……今並んでいるのはドクイヤシの草と、ただの釘。曲がっているけどまだ使える』
『そうじゃなくて、あなたの名前を教えてほしい。私はイデアル。……はじめまして』
 俺は当然、警戒して『名乗る気はない、営業の邪魔だ』とイデアルを追い払おうとした。
 しかしこいつは、あまりにもしつこかった。
 名前を聞き出すまでは去らないと言い、その言葉通りにしやがった。昇ったばかりだった太陽が傾き、周囲が薄暗くなるまで、店の前から全く動かなかったのだ。
 イデアルが『風が冷たくなってきたね』と焚き火を熾(おこ)そうとしはじめた時、ついに根負けしてしまった。
 シュカという、この国のものではない俺の名前。
 教えられたイデアルはなんだか嬉しげに『シュカさん、シュカさん』と繰り返した。そして、また来ますと去ったのだ。
 ――二日後、本当にまた来た。不可視の山鳥の尾羽というとんでもない高級素材を手にして。
『買い取りのお願いなら営業の邪魔じゃないよね』
 なんて屁理屈に、極上の笑顔を添えながら。
 あの日から、俺はずっとイデアルに帰ってくれと言い続けている。わざわざ人目を避けて路地裏にいるというのに、こんなに目立つ男が側にいてはなんの意味もない。
 そう、この男はいい意味でも悪い意味でも非常によく目立つ。
 俺からすると理解できない男だが、彼の名声は町中に広がっていた。『一騎当千の功績はまるで四大国戦争を終結に導いた英雄、フィエルテのようだ』と。
 フィエルテ。どんな魔物よりも強いとされる、世界で一番有名な人間の名。
 眉唾ものの話だがフィエルテは、十年ほど前に勃発し五年前まで世界中を脅かしていた世界四大国戦争を、たった一人で終結させた英雄とされている。
 世界四大国戦争とは、人跡未踏の秘境である“死の森”を挟んで東西南北に位置する四つの大国の関係が、徐々に悪化し、ついに引き起こされてしまった恐ろしい争い。
 天使族、悪魔族、オーガ族、人間族――この世界に生きる全ての種族が全力で激突したらしい。
 国々の中央に位置する“死の森”は人が立ち入ることができるような場所ではないから、国々が隣接する四つの国境が主な戦場となった。
 終戦までの五年間は戦火を避けるため、俺のような人目を避けたい者でさえ、他の人とともに避難した。人が多く自然が少ない首都付近にいるしかなく、薬草売りの商売すらまともにできなかったから、ゴミを漁り浮浪者だと蔑まれながら過ごしたものだ。
 そんな俺とは対極に位置する存在、フィエルテは、近づけば命はないとされていた激戦地帯――国同士が隣接する四つの国境を回り全ての争いを一人で止めてしまったそうだ。
 まるでおとぎ話のようだが、実際に見たという傭兵が興奮気味に語っているのを聞いたことがある。
 ――そんなにも強い人間が、何人もいてたまるか。
 だから俺は最初、イデアルはもしかするとフィエルテなのではないかと疑っていた。
 しかしフィエルテには終戦後、各国から金銀財宝をはじめ望むものが全て贈られたという。金も名誉も持つ人間が、わざわざこんな辺境の町まで来て傭兵のフリをする理由はないだろう。
 それに、フィエルテは決して笑わない男だと言われていた。どれほど称賛されても無表情、無感動。人を寄せつけないオーラを放っていたと。戦場にいた者たちは口を揃えて酒場で語る。
 目の前のニコニコ男とは真逆だ。
(じゃあ、イデアルはなんなんだ。おそろしく謎な男だな……)
「どうしたのシュカさん。私の顔になにかついてる?」
「……顔もありえないほど整っているしな……!」
 首を傾けたイデアルの蕩(とろ)けるような赤い瞳を真正面から見て、俺は聞こえないよう小声で呻(うめ)いた。
 この場に最も高価なものがあるとすれば、炎狼の毛皮より何よりこの男だろう。
 イデアルと一晩過ごせるなら、ひと財産差し出す者がいても不思議ではない。いや、むしろひと財産程度では安すぎるくらいだ。
 イデアルは強く、美しい。
 恐怖や嫉妬を抱いたっておかしくないはずなのに、イデアルはそんな感情を抱かせるよりも容(た)易(やす)く他者を魅了する。彼が微笑むだけで老若男女の区別なく目が釘付けになる。
 イデアルは毒だ。
 人目を避け日陰で生きる俺のような人間には、特に。
(勘違い、するなよ、俺)
 イデアルが側にいるだけで、自分が彼にとって特別な人間だと勘違いしそうになる。
 追い払っても追い払っても性懲りもなく訪れるイデアルを心待ちにしそうになる。
 どうせただの気まぐれか、企みにすぎないのに。
(俺みたいな『呪われ』が、人に好かれるわけがない)
 ――イデアルから感じている好意なんて絶対に嘘のはずなんだ。

   ***

 一週間の終わりの日、俺は商業ギルドの裏口の戸を叩く。
 正面から来るなときつく言われているからだ。
「はい。チッ……お前か」
「今週分の売上と帳簿を持ってきた」
「いい加減、来るのやめろよ。お前みたいなやつと関わっているって、ギルドの評判も悪くなってんだ」
 布に包んだ銅貨と帳簿を差し出すと、ギルドの職員は嫌そうに受け取る。
 やめろ、と言われたことについては俺は無言を貫いた。
 売上の定期的な報告は商人としての義務だ。
 本来なら半年に一度程度でいいのだが、以前十日間ほど報告しなかっただけで生意気だと罵られ、複数人に囲まれて殴られた。
 以来、嫌がられようが追い返されようが必ず週に一度は訪れることにしている。
 一日に銅貨一枚稼げたらいい方の俺の店で、今週の売上は銅貨四枚だ。うち二枚はイデアルが買い占めて更にチップだと置いていったもの。
「これっぽっちか」
 ギルドの職員は数えるほどの量さえない銅貨を鼻で笑うと、当然のように三枚掴み取り自分のポケットに入れた。
 残った一枚を俺の足元に投げつける。
「今度来たら殴るからな。二度と近寄るなよ」
 銅貨を拾う俺の鼻先で、バタンと大きな音を立てて扉が閉まった。
 手元に残されたのは銅貨一枚。
 普通は茶色のパンを二つほど買えるが、俺にとっては売れ残り固くなった黒パンを一つ売ってもらえるかどうかくらいのお金。
「……この銅貨、綺麗だな」
 拾った銅貨をローブで拭き、目の前にかざす。
 ギルドの壁にかけられたランタンの光を反射してピカピカと輝いていた。
 腹は減っている。
 しかし俺は輝く貨幣をパンに変える気になれなかった。
 ピカピカの銅貨は、こ汚い金ばかりが流通する町で唯一、イデアルが外から持ち込んだものだとわかったからだ。
 適正価格以上を受け取ろうとしない俺にチップだと言って、手を取り直接握らせてきた硬貨。
「おい! いつまでそこにいやがる!」
 疲れと空腹も相まってしばらくぼうっとしていたら、ざぶりと水をかけられた。
 見上げると二階の窓から、先ほどのギルド職員が空になったバケツを持ち顔を出している。
 俺はそそくさとその場から立ち去った。
「……これが普通。俺の扱いはこれが普通なんだ。あいつが……イデアルが変わっているだけなんだ。あいつだって、裏では俺のことを嫌っているはずだ」
 自分に言い聞かせながら、人目を避けて路地裏に向かう。
 見つかれば泥や石を投げられるからだ。
 でも仕方ない。
 町の人々の反応は正常だ。
 ――俺には、“周囲の人々に嫌悪感を抱かせる”という『呪い』がかかっているのだから。

   ***

 もう二十年も前の話だ。
 俺は貴族から依頼された仕事に失敗した。
 プライドが高く傲(ごう)慢(まん)な貴族は、失敗の報せを聞いて怒り狂う。
『この無能がっ! 道具ごときが、仕事をやった恩を忘れよくもぬけぬけと口ごたえなど……!!』
 松明(たいまつ)だけが灯る、薄暗く湿った地下室。
 依頼主の貴族が木の台に拘束された俺に向かい、昂ぶる感情に任せ何度も何度も鞭を振り下ろす。
 当時十二歳だった俺の体は未熟で、手酷く打たれた傷跡と後遺症は二十年経った今でも全身に残っている。
『クソッ……この程度では腹の虫が収まらん。……そうだ、先日面白いものを買ったな。あれを持ってこい』
『あ、あれを……このような子どもに……!?』
『私に逆らうとどうなるか、身をもって思い知らせてやる。早く持ってこい!!』
 貴族が使用人に何かを言いつける声が聞こえた。
 どれくらいの時間が経ったのか。
 鞭の痛みで気絶していた俺は、それを上回る痛みで起こされる。
『ぎゃああああああああ!?』
『ははは! もっと啼(な)け! 私に逆らったことを心の底から後悔するがいい!!』
 あまりの痛みで飛び出しそうなほど見開いた目に映ったのは、恐ろしい光景だ。
 俺の足首に、真っ赤な金属の焼印が押し付けられていた。
 しかも一度離れたと思えばすぐに熱し直され再び押し付けられる。
 足が千切れるんじゃないかと思うほどの痛みを少しでも逃がそうと必死に暴れた。
 しかし全身を拘束されていて、叫ぶことしかできない。
『あ……ガ……アアアアアアアアっ!!』
『一度で終わらせるものか! 何度も刻みつけてやる、何度も、何度も、何度も……!!』
 思えばこの時から『呪い』が発動していたのかもしれない。
 貴族の男は加虐に酔った目で俺の足に幾度も焼印を押し付けた。
 足首をぐるりと一周、足枷のような消えない傷ができるまで、何度も何度も。
『これは呪いの焼印だ。刻み込まれた者は周囲の者に嫌悪感を与え、虐げられる存在となる。どれほど苦しくとも自殺は決してできない。これからの人生全てで泥の中を這いずりながら、愚かな行動を後悔し続けるがいい!』

   ***

「――ハッ!」
 目を覚ますと、全身が汗でびっしょりと濡れていた。
 よほど力を入れていたのだろう。全身が軋(きし)み、口の中に血の味がする。
「またあの時の夢か……」
 俺は町の外壁に板を立てかけただけの小屋とも呼べない住み処から、のっそりと這い出した。
 幸いまだ早朝のようだ。人が起き出してくるより先に川で水浴びができるだろう。
「……早く水浴びして、今日の分の薬草、仕入れに行かないとな……」
 川の水で口をゆすぎ、軽く顔を洗うと最悪だった気分が少しだけマシになった。
 二十年間繰り返し見続けている悪夢だ。いい加減、少しだけ慣れた。
 鞭で打たれた後遺症で俺の手の力はひどく弱まってしまった。
 かろうじて小ぶりなナイフを握ることができる程度で、町の外の森へ出かけ朝の柔らかい薬草を摘むことが精一杯。
 手が一番ひどいが、全身もそれなりだ。
 拷問の後、手当てもされず裸同然の状態で放り出されたため、折れた骨がそのまま癒着してしまった。
 そのせいで全身が軋み、歪み、長い距離を歩くことすら難しい。
 ツルハシや剣などの重いものにいたっては持つことさえできず、俺は搾取されようが嫌われようが商人として細々と生きていくことしかできなかった。
 物乞いすることさえも、“周囲の人に嫌悪感を与える”という『呪い』のせいで不可能だ。
 教会の炊き出しに並ぼうとしたら、誰にでも笑顔で接していたシスターが途端に顔を歪め、「今日の炊き出しは終了です」と冷たく言い放つほど。
 信仰心ですら太刀打ちできないとは、俺にかけられたのは余程強力な『呪い』らしい。
『これからの人生全てで泥の中を這いずりながら、愚かな行動を後悔し続けるがいい!』
「……後悔なんてしてないけどな」
 今でも鮮明に思い出す、貴族の言葉。
 俺はたしかに泥の中を這いずり回って生きてきた。
 あの日の痛みや苦しみを忘れたことはないし、貴族を見ただけで前後不覚になるほどの恐れが今も骨の髄まで染み込んでいる。
 他人から嫌悪感を向けられるたびに心が摩耗し、俺はこうして生き続けるんだと諦めるまで時間はかからなかった。
 ――それでも、依頼をわざと失敗したことを後悔したことはない。
「あの時の子、元気にしてるかな……」
 人の気配が近くにないか警戒しながら、ボロボロのローブを着たまま川に入る。
 朝の冷たい水に身を浸し空を見上げると、胸にあった夢の名残がすうと軽くなった。
 あの件で俺はずいぶん変わってしまったが空の蒼さは変わらない。
 この空の続くどこかで、いつか見た少年が元気に過ごしているかもしれない。
 そう思うことができたから、俺は空が好きだった。
「服を着たまま川に入るなんて危ないよ、シュカさん」
「――っ!?」
 ふいに背後から声が聞こえたと思ったら、ザブリと体を引き上げられた。
 水を吸って重くなったローブと、小柄とはいえ仮にも成人した男の体を軽々と持ち上げているのは――蒼天の下で更に輝きを増している美しい男。
「イデアル!? なんでこんな場所に……何日か留守にするって言ってなかったか?」
 炎狼の毛皮を持ち込んできた後、イデアルは聞いてもいないのにペラペラと今後の予定を喋(しゃべ)っていった。
 なんでも、欲しい物が近場にないようだからもっと遠くまで足を延ばしてみるだとか。
 十日は帰ってこれないかも、と言っていたのに、あれからまだ四日も経っていない。
「欲しい物が別口から手に入りそうという情報があったから戻ってきたんだ。そんなことより、シュカさんは何をしてたの?」
「み……見てわかるだろ、水浴びを……」
「服を着たまま? ……ああ、体が冷えきっている。もう秋だよ。今朝は特に涼しい風が吹いているのに」
 子どもの頃の怪我とその後の栄養不足で俺の体は平均よりかなり小柄だ。
 長身のイデアルに抱き上げられると、つま先さえ地面に届かなくなる。
「下ろし――」
「どうして服を着たまま水浴びなんてしていたの? こんな、川の下流で」
「え……」
 服を脱がないのは、町の人に傷を見られたら陰であることないこと噂されるからだ。
 人の口を渡るたびに悪意が増していった噂のせいで、俺はこれまで六つの町を追い出されている。
 それに、脱いだローブを汚されたり、破かれたり、捨てられたこともあった。
 川の下流なのは単純に町外れで人目につかないからだ。生活用の細い川だが、流れは絶えないから早朝であればそこまで汚くもない。
 だが、そういった理由をこの美しい男に告げるのは躊躇(ためら)いがあった。
 俺のことをシュカさんと無邪気に呼ぶイデアルに、これ以上みっともないところを見せたくない。
「な、なんだっていいだろ。下ろしてくれ」
「……決めた」
「え? うわっ!」
 イデアルは俺を浮かせたまま器用に、膝の下に手を差し込みすくい上げた。
 片手で背中を支えられ、横抱きにされる。
「プランタン、こっち」
 イデアルの呼びかけで遠くから軽快に駆けてきたのは大柄の黒馬だった。
「う、馬!? でっか……」
「プランタンの足ならすぐに着くから、寒いかもしれないけど我慢して」
「うわっ」
 イデアルは俺を軽々と馬の背に押し上げた。すぐに自分も乗り、鞍(くら)にくくりつけてあった毛布を広げて俺を包み込む。
「イデアル! 俺は早く薬草を摘みに行かないと、……っ!」
 こんなことをしている場合じゃないんだと訴えようとして、言葉が詰まった。
 イデアルの目がいつになく険しかったからだ。殺気なんて欠片もないのに、蛇に睨まれた蛙のように身がすくんでしまう。
「――そう。そのまま口を閉じていて。急ぐから、喋っていると舌を噛むよ」
 イデアルは毛布で包んだ俺をしっかりと抱えると、プランタンに声をかけ走り始めた。
 大きい馬なのに、イデアルも馬もすさまじい技量なのだろう。小さな町の広くはない道を風のように進んでいく。
 瞬く間に到着したのは、町で一番大きく豪華な宿だった。

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