書籍詳細

未来で断罪してくる騎士のため、悪魔の侯爵と呼ばれた俺は人生を繰り返す

青木なつき/著
兼守美行/イラスト

定価 : 1,320円(税込)
発売日 : 2023/07/14

内容紹介

もう二度と、手放してやれない

悪魔と呼ばれた美貌の侯爵・ルチアーノは、堅物な騎士・フレデリクに殺されるたび、子供時代に時が遡り、人生を繰り返していた。どんな人生を歩んでも最後は必ずこの男に断罪される――ルチアーノはこの理不尽なループから逃れるため、運命に抗うことを決心する。今度こそ断罪とは無縁の穏やかな人生を送ろうとするが、フレデリクから逃れようとすればするほど、なぜだか彼は追ってきて…「言っただろう。もう離してやれないと」自分を殺した男に芽生えるこの感情は一体なんなのだろうか。運命の鎖が絡み合う、歪な愛の行方は――。

人物紹介

ルチアーノ

とある理由から悪魔の侯爵と呼ばれ恐れられていた。今世では、穏やかに生きたいと思っている。

フレデリク

堅物な近衛騎士。これまでの人生では、毎回ルチアーノを断罪していたが…。

立ち読み

一章



「君の野望はここで終わりだ――悪逆侯爵ルチアーノ」
 ごぽ、と口から鮮血が溢(あふ)れ出す。体に突き刺された大剣が容赦なく引き抜かれ、ルチアーノは床に両膝をついた。体には大きな風穴が開き、焼けるような痛みで低い唸(うな)り声をあげた。
 崖の上にそびえ立つ古城は、斬撃の音が止むと瞬く間に静寂に包まれた。
 自分の家族ですら殺害し、人々に悪魔の男と呼ばれたルチアーノは、殺気を孕(はら)んだ視線で正面に佇(たたず)む騎士を睨(にら)みつけた。
(フレデリク・ハーシェル……!)
 ルチアーノの腹に剣を突き刺した男は、かつてルチアーノに両親や婚約者を殺害され、全てを奪い取られた哀れな男爵家の息子だった。騎士団で剣術を磨きソールビア国王直属の近衛騎士の座に上り詰めた彼は、復讐の炎を瞳に宿し、ついに今日、その報復を成し遂げたのだ。
 ルチアーノは己の両手を見つめた。自分が流した血で真っ赤に染まった手を確認して、その様子をどこか他人事のように感じていた。
 頭を俯(うつむ)かせると自分の長い金髪がはらはらと視界に入ってきて邪魔だった。
 全身を覆う純白の衣には赤い染みが広がり、服が吸いきれなかった血液は足元に深紅の池をつくりあげていた。
 フレデリクは乱れた黒艶髪の間から、冷めきった青い瞳でルチアーノを見下げている。
 その顔が悲痛に歪(ゆが)んでいるのが気に入らなくて、激しい苛(いら)立(だ)ちを覚えた。両親や婚約者の敵(かたき)を取れたのだから、飛び跳ねて大喜びすればいいのに。
(こういうところが大嫌いだったんだ)
 血だまりに座り込んだルチアーノは、悔しさのあまり奥歯を強く噛(か)んだ。
「せめて自分が殺してきた人々に、今ここで懺(ざん)悔(げ)しろ」
 温度のない声色でフレデリクが告げる。ルチアーノは耳を疑った。
「懺悔……? ふ、ははっ! アハハ!」
 あまりにおかしくて、体に大穴が開いているにもかかわらず大笑いしてしまった。
 男の甘すぎる思考回路に感動すら覚えた。
 能天気で、楽観的な、おめでたいやつめ。
 ククク、と喉を鳴らして笑っていると、フレデリクの表情がみるみるうちに曇る。
「何がおかしい」
 不快感を露(あら)わにしたフレデリクが問う。
「何がだって? 全てがおかしくてたまらないね」
「……なんだと?」
「この俺が、クズ共の弔いをするとでも思ったのか?」
 気管に血液が入り込み、喋(しゃべ)るたびにぜぇぜぇと喉が鳴る。酷い眩暈(めまい)で体がぐらりと揺らぎそうになるのを必死に耐えていた。決定的な敗北を前に、虚勢を張る必要なんてないとわかっている。だけど目の前の男にだけは、一瞬たりとも自分の弱い姿を見せたくなかった。
 ルチアーノだってこんな結末を望んでいたわけではない。こうすることでしか救いを見いだせなかったのだ。この結末を望む以外の選択の余地がなかっただけ。しかし、フレデリクにとってルチアーノが許しがたい存在であることは、揺るぎのない事実だった。
 だから悪魔は悪魔らしく、最後まで邪悪でいようではないか。
 ルチアーノは不敵に口角を吊(つ)り上げた。
「お前の家族も、婚約者も、みんな死ぬ定めだったんだよ」
 フレデリクが、ギリッと剣を握りしめる。
「俺は、絶対に君を赦(ゆる)しはしない」
 そして空へ掲げた剣を、全力でルチアーノへ振りかざした。
「何度生まれ変わろうとも、必ず君を殺す……ルチアーノ!」
 ルチアーノは薄く笑みを浮かべたまま、目を瞑(つむ)る。
 人々から悪魔と恐れられた侯爵は、敵の男にその首を刎(は)ねられた。



 死んだはずだった。
 再び目を覚ましたルチアーノは、目の前に広がった景色が信じられず何度も瞬きをした。人生の半分以上を過ごした見慣れた部屋に、自分はいた。備え付けられた家具から窓の向こうの景色まで過去の記憶のままだ。随分と鮮明な夢だと思った。
 だがルチアーノには、フレデリクに首を刎ねられた、あの感覚が鮮明に残っている。
 小刻みに震える手で、横へなぞるように首を摩(さす)ってみた。切り離されたはずの皮はしっかり繋(つな)がっている。五感も正常だ。
「は……?」
 傍(そば)にあった姿見で自分の見た目を確認しようと鏡に近づいたルチアーノは、口を大きく開けて呆(ほう)けることになった。金髪赤眼の十代半ばであろう子供がそこにいたのだ。
 見間違えるはずもない。子供の頃の自分の姿が鏡に映っていた。
「ルチアーノ! まだ寝ているのか!」
 ドンドンドン、と力任せに扉を叩く音に続き名前を呼ばれる。昔、ルチアーノが殺したはずの父親の声だ。死んだ人間が生きているというのか。そんなはずはない。人は生き返らない。
 ではなぜ、自分はこんなところにいるのだろう。
 見知った場所、子供のような姿、死んだはずの父親。目の前に広がる光景が夢ではなく現実だと理解するのに、そこまで時間はかからなかった。
 ルチアーノはどういうわけか、過去に時間を巻き戻されたようだった。
 元の世界に戻る解決法も見つからず、それからは必然と記憶の通りに進んでいく日々を過ごすことになった。
 一度経験した出来事をなぞるように暮らすことは容易だった。
 両親も、自身に仇(あだ)をなす人間も、全員消した。《一度目》と同じように。
 そして《二度目》の人生は《一度目》と同じ場所で、同じようにフレデリクに断罪された。
《二度目》の人生を終えると、当たり前のように《三度目》の人生がやってきた。
《三度目》は少しだけ違う選択肢を選んでみた。気に入らないやつは殺すが、利用できるものはなるべく殺さずに利用した。しかし、横領や詐欺紛いの悪事を行っていたこと、殺人に関与していたことを国に咎められたルチアーノは爵位を剥(はく)奪(だつ)され、断罪されることになった。
 そして民衆の前で首を刎ねられたのだ。騎士フレデリクの剣によって。
《四度目》と《五度目》の人生は工夫してみた。これまでだったら考えもしなかった選択をしたり、人に優しくしてみたりと試行錯誤した。だがどれだけルチアーノが奮闘しようと、フレデリクに断罪される結末だけは絶対に覆らなかった。
《五度目》の最期を迎える時。ルチアーノはようやく理解した。
 繰り返されているのだと。
《フレデリクに断罪されるたび、時が遡(さかのぼ)っている》
 腹に突き刺さる剣を勢いよく引き抜かれ、ルチアーノは音もなく床に崩れ落ちた。
「くく……ははっ! ハハハハ!」
 どうして今まで気づかなかったんだろう。
 仰向けに寝そべり、血が噴き出す腹を押さえながら天を仰ぎ高笑いした。
 断罪するためルチアーノに剣を突き刺したフレデリクが「ついに気が狂ったのか」と独り言のように言った。そうだな、概(おおむ)ね正解だ。
 ひとしきり笑い終わると、もはや皮肉を浴びせる元気も、起き上がる気力も残っていなかった。
 ルチアーノは冷たい床に横たわり、青色の瞳を微かに揺らす男と視線を合わせた。
 そしてゆっくりとこちらに手を差し伸べようとしている騎士の姿を見つめ、乾いた笑みを浮かべながら呟(つぶや)いた。
「……お前の顔を見るのは、もう、うんざりだ」
 瞼(まぶた)を開いていられなくなって、瞳を閉じる。……ルチアーノは決心した。
《次の人生は誰も殺さずに過ごしてみよう》
 全員殺すのがだめなら逆はどうなんだ、という純粋な好奇心だった。
 自分より格下だと見下していた男に何度も殺されるのが嫌になってきた。何度も繰り返される人生に、飽き飽きしたのだ。
 暴虐の限りを尽くすことをやめ、罪を犯さず善人になれば、この人生へ終わりを告げることができるのだろうか。それとも永遠に、この輪(りん)廻(ね)から抜け出すことはできないのだろうか。
 試してみる価値はある。
 意識が遠のく。《五度目》の人生はそこで途絶えた。
 そして今回も、ルチアーノは見知ったベッドの上で目を覚ます。
 鏡で己の容姿を確認するまでもない。まもなく、父親が扉を叩いてくるだろう。
 五回、フレデリクに断罪されることで繰り返された人生。それなら、なるべくあの男に殺されないように穏便に生きてみよう。自分の癇(かん)癪(しゃく)玉(だま)が破裂するのが先か、断罪が先か、賭けてみるのもいいだろう。
 こうして、ルチアーノの六度目の人生が始まった。

        ◇ ◇ ◇

 どの人生においても、父の書斎に足を踏み入れることは滅多になかった。
「ルチアーノ。お前はもう十五歳だから、伝えなければならないことがある」
「はい、父上」
 前世のルチアーノが当主になった後も立ち入ることはなく、物置と化した場所がこの部屋だった。弟のダミオンはよく入り浸っていたみたいで、その仲(なか)睦(むつ)まじい親子の姿が微笑ましいとメイドが噂(うわさ)していたのを耳にしたことがある。
 自分が入室しようとすれば一瞬で顔色を変え、大声で怒鳴ってきた父の顔を思い出し、ルチアーノは小さく顔を歪めた。
 忌まわしい思い出と共に封印したはずのこの場所が嫌いだった。
「我がユルゲン侯爵家の後継にはお前ではなく、ダミオンを任命することにした」
 六回も同じ話を聞かされるというのもなかなか堪(こた)える。初めて知った時のような反応はできないが、どんな回答が喜ばれるのかは知っているから三度目以降は適当に聞き流していた。今回も同じだ。
「良いと思います」
「うむ。お前が反対するのもわかる……何?」
「私ではなく、ダミオンの方が適任でしょう」
「そ、そうか……。珍しく物分かりがいいじゃないか」
 父の目がキョロキョロ泳いでいる。賛同されると思っていなかったのだろう。
 一度目の人生では、すんなりとこの事実を受け入れることができなかった。
『長男である私が跡取りでないのはなぜですか』なんて無駄な抗議をした記憶を思い出し、そんなこともあったなと感傷に浸る。
(嫡男の俺が選ばれるはずなど、なかったのに)
 実の母親は、ルチアーノを産んですぐに産(さん)褥(じょく)熱(ねつ)で死んでしまった。
 父はルチアーノが四歳になる頃に再婚し、翌年ダミオンが生まれた。継(まま)母(はは)は自分の産んだ子供に爵位を継がせたがった。そのためには継承権を持っているルチアーノが疎ましい。継母がルチアーノを差別するのに、それ以上の理由はいらなかった。父は継母に頭があがらないし、周りから何を吹き込まれたのか知らないが、弟のダミオンすらルチアーノを見下していた。
 偽りの家族など、ルチアーノにとって邪魔なものでしかなかった。だから《一度目》は一人残さず殺してやった。
(俺を認めない家族なんて必要ないんだ)
 そんな家族も、何回目の人生からかは忘れたが、殺すことすら億(おっ)劫(くう)になっていた。早々に消してしまった方がルチアーノの心の安寧は保たれるが、今世は誰も殺さないと決めている。
 上の空で退室の許可を待っている間にも、父は冗長な話を続けていた。
「それで、だ。ダミオンが継ぐまでの間、サポートをしてもらう。お前の方が年上なんだから、ダミオンのことをしっかりと支えてやるんだ」
 ルチアーノは冷めきった瞳で父の姿を捉えた。
 よくもそんな都合の良いことを思いつくものだ。爵位を継げなかった嫡男が、どんな惨たらしい扱いを受けるのか知っているのだろうか。長ったらしい父の話を要約すると、この家のために働く奴隷になれということだった。継母の入れ知恵だろう。何度も人生を繰り返して確信した。この家は、遅かれ早かれ破滅する運命だったんだ。
(どうせ壊れるのに、先に壊して何が悪いんだ。俺はそんなに罪深いことをしたのか?)
「もちろんです。全力でお手伝いさせてもらいますよ」
 顔に笑顔を張り付け、ルチアーノはニコリと微笑む。こんな嘘みたいな笑顔で喜ぶんだから、ユルゲン一族は本当に滑(こっ)稽(けい)な生き物だった。
(傀(かい)儡(らい)になった父親も……そして俺自身も)
 書斎を出るとすぐに、待ち構えていたかのように扉の前にいた継母が話しかけてきた。
「あら、ルチアーノ。お父様から呼び出されて何を言われたの?」
 何を言われたかなんて知ってるくせに。継母は口が綻(ほころ)ぶのが隠しきれていない様子で訊ねてきた。ルチアーノはなるべく悲(ひ)愴(そう)感(かん)を漂わせる表情を作ってみせた。
「後継の話でした。ダミオンに爵位を継がせると」
「まあ、そうなの。長男のあなたもいるのにねぇ」
「いえ、ダミオンの方がきっと領主に向いてますよ。正式に継ぐまでの間は、私も色々と手伝わせてもらいますので」
「あら、継ぐまでと言わずに、ずっとダミオンの傍で働いてくれてもいいのよ」
 それは永久に、このクソみたいな家のために尽くせということなのだろうか。死んでもお断りだ。
 このまま彼らが悪逆を続ければ、ユルゲン侯爵家は必ず断罪される。そういう結末だからだ。
 自分たちだけが贅(ぜい)を尽くすために領民から多額の税を徴収したことや、横領で得た金を着服したこと。犯した罪を償うため、みんな仲良く斬首刑だ。
 かといって、彼らに悪事を止めさせ、改心させる術(すべ)をルチアーノは持ち合わせていない。
 だからルチアーノは、彼らから離れることにした。
「ダミオンが後を継いだら私は邪魔になるでしょうし、どこか遠くに働きに出ようと思っています」
「あらそうですか。まあお好きになさい」
 思い通りにならなかったことが気に入らないのか、不機嫌な表情を浮かべた継母が侍女を引き連れ去っていくのを確認して、ルチアーノは自室に戻ることにした。無駄に広く長い廊下を歩く。
 衝動で家族を斬り殺すなんてことは、最初の方の人生で済ませておいてよかった。
 でなければ、こんな偽りの家族たちと生活しなければならない事実だけで、頭がどうにかなりそうだった。



 後継の話をされた数カ月後、これまでの人生で初めての出来事が起こった。
 ハーシェル男爵が、ユルゲンの領地視察にやってくることになったのだ。
 隣領の領主であるハーシェル男爵は、ルチアーノを五回殺した騎士『フレデリク・ハーシェル』の父親だ。どの人生においても、ユルゲンとハーシェルの間に交流はなかった。今世でも、互いの領地を行き来できるほど親密な関係は築かれていない。
 それなのに突然、視察のために領地を訪れたいと先方が言いだしたのだ。
 以前のルチアーノは、侯爵を譲ろうとしなかった父と継母、弟を抹殺して爵位を奪い取った。その後、領地拡大のために邪魔になった隣領のハーシェル男爵と夫人を手にかけた。両親を殺害されたフレデリクは、ルチアーノに奪われた領地を取り戻すことができず、逃げるように転がり込んだ王都で騎士団に入隊する。
 そうして近衛騎士になったフレデリクによって、ルチアーノは幾度となく断罪されてきた。
「ルチアーノ! 呼んだらすぐに来い!」
 父親の怒声が屋敷に響く。
 仕方なく自室から出てみると、顔を真っ赤にした父が肥えた腹の上で腕を組んでいた。
 聞こえなかったと黙殺しようとしていたルチアーノは、小さく眉を顰(ひそ)めた。
「すみません。書類の処理が立て込んでいまして」
「フン、要領が悪いのは母親譲りだな」
 何か一つでも文句を言わないと気が済まないのだろうか。ルチアーノが露骨に顔を歪めても、父は気づく様子も見せない。会ったこともない母は愚か者だった。こんな男の子供を産むために死んでしまったのだから。
「いいかルチアーノ。ワシは忙しい」
「……そうですか」
 そんなわけがあるか。毎日ぐうたらと時間を無駄に消費しているだけのくせに。と言いそうになるのを抑えて口を噤(つぐ)む。
「今日ハーシェル男爵が屋敷を訪ねてくる。だが侯爵のワシが男爵家の相手などする必要はない。だからお前が対応するんだ」
「……はい。父上」
「いいか、余計なことは言うんじゃないぞ。わかったか」
「はい」
「わかればいい。じゃあな」
 言いたいことは山ほどあったが、愚かな父を前にすると口論することさえ徒労に思えた。こうなることは予想していた。お前を領主にはさせないと宣言したくせに、領地の管理は殆(ほとん)どルチアーノに丸投げだから、男爵に説明を求められても応えられないんだろう。
 一度目の人生では、父の期待に応えたいだなんて健気に領地経営をしていたが、今はそんな感情は一ミリも湧かない。どんなに努力したって結局奪い取る形でしか、ルチアーノは領主になれなかったのだから。
 それに今となっては任せたら最後、破滅への道が加速するので一切手を出さないでほしいぐらいだった。適当な理由をつけて雑務を押し付ける父親に、元から期待などしていない。爵位を継いですらいない息子に仕事を任せている自分のことは棚に上げて、今日も違法賭博に勤(いそ)しむのだろう。継母と弟は話にすら出てこない。彼女らがどこで何をしていようがルチアーノには興味がないから構わないのだけれども。
 腕時計を確認する。短い針は十一時の少し前を指していた。
 ハーシェルの名前を聞いた時、本当は逃げ出してしまいたかったが、やむを得ない。
「ペールはいるか」
「はい。坊ちゃん」
「何時頃に男爵御一行が到着するか教えてくれ」
「先日の便りには昼頃になると書いておりました」
「そうか。取り急ぎ厨(ちゅう)房(ぼう)に来賓用の昼(ひる)餉(げ)の準備をするように連絡をしてくれ」
「はい」
 ペールは長くユルゲン侯爵家に仕える従者で、灰色の髪と口(くち)髭(ひげ)が似合う老執事だ。彼は、ルチアーノのことを蔑(ないがし)ろにしない数少ない人間の一人だった。
 そもそも、父から視察の件を聞かされたのが、客人が来訪する当日だなんて笑える話だ。事前にペールから話を聞いていなければ今頃どんなことになっていたのか、父は想像すらしないのだろう。いくらユルゲンが男爵より上位の爵位だからといって、適当な対応はできない。もし、ハーシェル男爵が『ユルゲンは領地の管理もろくにできていない』と社交界で吹聴したらどうなる。
 ユルゲンの名は瞬く間に下落し、家名に泥を塗ることになる。または、そんな話が国王の耳にでも入ってみろ。爵位の剥奪だなんてこともあり得るかもしれない。
 そんなことがないよう、常に誠意を尽くさなければならないのに、父や弟は侯爵という地位に胡坐(あぐら)をかいているだけ。彼らは地位と金に溺れたドブ鼠(ねずみ)なのだ。

 時計の針はあっという間に十二時を指し、屋敷の前に一台の馬車が停車する。
 身(み)嗜(だしな)みを整えたルチアーノは涼しい顔をして、門前で深々とお辞儀をした。
「遠路はるばるお越しいただきありがとうございます。長男のルチアーノ・ユルゲンです」
 男爵が馬車から降りる。フレデリクの父、レイモン・ハーシェル男爵は肩幅がしっかりした恰(かっ)幅(ぷく)の良い凛(り)々(り)しい容姿の年配の男性だ。黒々とした髪の毛を撫でつけ、清潔感があり、人の良さそうな印象を与えた。レイモンに続き、綺麗な小麦色の髪を揺らした男爵夫人のアリンシアも下車する。視察に夫人がついてくるということは珍しいことであったが、ルチアーノは彼らの視察を断る権利すら持っていないので、言及はしなかった。
「こちらこそ数日間よろしくお願いします。おや、ご当主様は?」
「父は急用が入ったため、私が案内を担当することになりました。どうかご無礼をお許しください」
「そうですか。お忙しい中お訪ねして申し訳ない」
 ルチアーノが困った表情をすれば、レイモンはそれ以上の詮索はしてこなかった。この場面で息子のルチアーノただ一人しか現れないことに、ユルゲンが並々ならぬ事情を抱えてると気づき、気を遣ってくれたのかもしれない。
 どちらにしても、今回の視察が断罪のきっかけにならない程度に軽く受け流してしまおうと考えていた。ルチアーノは得意の作り笑いを顔に張り付け、二人を屋敷に案内しようとした。
「移動でお疲れでしょう。昼餉の用意はできていますので、ご一緒にいかがでしょうか」
「おお、ぜひ。お心遣い感謝します」
「もうこの子ったら。ご挨拶ぐらいしなさい」
 レイモンの背後で、アリンシアが誰かと会話している。ルチアーノはその人物が誰なのか理解していた。だから気づかないふりをしていた。意識するだけで、心臓が早鐘を打つように動揺するからだ。できることなら今すぐに背を向けて立ち去りたい。顔も見たくない。
(今度こそ殺してやる)
(だめだ。今回は穏便に過ごすんだろう)
(自分が殺される前に殺してしまえばいい)
(それもだめだ。また無意味に人生を繰り返すことになる)
 葛藤が渦巻き、脂汗が額を滑る。
 これ以上、彼の存在を無視して話を続けることは不可能だった。
 ルチアーノは渋々、重たい唇を開いた。
「失礼。そちらの方は?」
「すみません、ルチアーノ様。ほら挨拶なさい」
 アリンシアに背を押され姿を現した少年は、じっとルチアーノの顔を凝視し、こちらの様子を窺(うかが)っている。つんと尖(とが)った唇に、困ったように下がった太い眉。漆黒の髪に澄んだ青色の瞳。殆ど前髪で隠れているが、その瞳の中に潜む眼光が鋭くルチアーノを射抜くことを知っている。忘れるはずもない。
「はじめまして……フレデリクです」
 これが、敵の男と。今世初めての邂(かい)逅(こう)だった。

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